【ネタバレあり】VRの「未来」、ギーク文化、そしてジェンダーの視点から『レディ・プレイヤー1』を考える

映画『レディ・プレイヤー1』の世界で描かれた80年代的なギーク文化は、どこまで原作に忠実だったのか。女性の描かれ方はどうだったのか。仮想世界「オアシス」は、仮想現実(VR)の可能性を忠実に描いているといえるのか──。こうしたさまざまな疑問について、『WIRED』UK版のエディターふたりの議論から見えてきたこと。
【ネタバレあり】VRの「未来」、ギーク文化、そしてジェンダーの視点から『レディ・プレイヤー1』を考える
PHOTOGRAPH COURTESY OF 2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.

スティーヴン・スピルバーグ監督の『レディ・プレイヤー1』は突き詰めて言えば、ティーンエイジャーのヒーローが、何かを求めて旅をする古典的な冒険物語だ。1億7,500万ドル(約188億円)の予算に加えて、偉大なるギーク(オタク)文化の素材がいくつも組み込まれたこの作品は、2018年で最も大々的に宣伝され、熱い期待が寄せられている映画のひとつである。

ただし、この映画に問題がひとつもないというわけではない。原作にどのくらい忠実なのか? なぜ、高額の予算をかけたアクション映画には、信頼できる女性キャラクターがいないのか? 映画に登場する「オアシス(OASIS)」は、仮想現実の未来をスクリーン上で表現したものとして最も優れていると言えるのだろうか?

こうした疑問について、『WIRED』UK版のヴィクトリア・タークとジェームズ・テンパートンが厳しい議論を交わした。

【注意】ネタバレあり: 以下には、映画『レディ・プレイヤー1』と、原作『ゲームウォーズ』のネタバレが含まれる。

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ジェームズ・テンパートン(以下JT): 正直なところ、この映画をどう思いましたか?

ヴィクトリア・ターク(以下VT): とてもがっかりしました。映画を見る少し前に原作を読んだんですが、そのストーリーや、描かれている世界には本当に引き込まれました(現実世界と仮想世界の両方に)。なので、これら全体をスピルバーグ監督がどのように解釈するのか楽しみにしていたんです。

でもわたしにとって、この映画は期待に応えてくれませんでした。ストーリーがうまくかみ合っていないし、筋書きは悪いほうに変更されているし、とにかくどのキャラクターに対しても何も感じることができないんです。

2045年の現実世界の設定には、いいと思ったものもあります。未来的スラムのようなスタックパークで生活し、現実世界とのかかわりを断ってオアシスのなかで生きようとする人々を映した冒頭のシーンなどですね。

でも、終わりに近づくにつれて、何もかもが『トランスフォーマー』的になっていってしまう。そして、あの感傷的なキスシーン。たぶんわたしは、この映画の最も困惑するようないくつかのシーンでは、「あきれた」といった顔になって、実際に目が上に行っていただろうと思います。

JT: つまり、感銘は受けなかった、というわけだね。ぼくの意見としては、この作品の主な問題は、非常にスピルバーグ的である、という点にあると思う。そう、これが重要な点の一部だね。この映画は、1980年代と90年代のギーク文化に対する大きなオマージュではあるけれど、映画全体が1994年に公開されたもののように感じられる(視覚的な部分は別として)。

配役や、世界の動きに反発する子どもたち、そして音楽。音楽はなんとも言えないよね。目を閉じると、まるでE.T.とエリオットが自転車に乗って飛び回っているのを見ているように感じる。この映画を大人向けにしたかったのか、子ども向けにしたかったのかもよくわからない。筋書きは子ども向け映画のようだけど、登場する作品のほとんどは30歳以上でなければわからない。それにもかかわらず、筋書きは非常に単純でつまらなくて、1時間もすれば退屈してしまうだろうね。

VT: 実はこの映画の音楽は、わたしが気に入っている点のひとつなんです。でもそれは、まさにわたしの趣味だからですね(『E.T.』が大好きなんです)。「世界の動きに反発する子どもたち」というのは興味深い点だと思う。なぜならそれが、映画と原作を比べたときの、中心的な違いのひとつだからです。

原作では、登場人物たちは最後の最後のシーンまで、現実世界で顔を合わせることはないけれど、映画ではかなり早くから顔を合わせます。最初から最後まで、ひとりの人間だけを見ていても面白くはないので、これは必要な変更だったと思いますが、わたし自身はそれによって、ウェイド・ワッツとその友人たちの性格が、正反対になってしまったように感じています。

原作では彼らは孤立していて、偏執傾向があり、おそらく人づきあいがかなり苦手なギークたちとして、インターネットの世界で生きているという想定でした。それこそが、人々がこの小説に親近感を持った理由のひとつだと思います。けれども、映画版のように現実世界で仲間になってしまうと、それがすっかり変わってしまいます。

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JT: その意見は、この映画がギーク文化をどのように扱っているかについて語るための、うまいきっかけになりますよね。ギーク文化の扱いについては賛否両論だけど、あなたがかなり強い意見をもっていることはわかっている。ただぼくは大まかにいえば、少し退屈だと感じているんだ。もちろん、「HALO」から「Worms」に至るまで、あらゆる知的所有権を確保できたことには感心するけれど、それだけで映画に大きな意味が加わるわけではないからね。もっとたくさんの有名キャラクターをファイトシーンに放り込んでも、すぐに退屈になってしまうだけなので。

『レディ・プレイヤー1』が本当に輝くのは、ギーク文化を主要な筋書きの手段として利用するときだと思う。例えば、映画『シャイニング』の世界を描いたシーンのセットは、この作品で最も優れた場面のひとつだった(奇妙なゾンビたちが舞踏場で踊る場面は除いて、だけど)。

VT: そうね、わたしもそれらの表現はどれも非常に気に入りました(ただし、あの最後の戦い、あれはどうかやめてほしい。メカや武器、登場人物が増えても、そんなのはどうでもいいので)。わたしが問題だと思っていることのひとつは、どの挑戦においても、感銘を受けるほどギーク的なことをキャラクターたちがする必要が、実際にはなかったということですね(最後の挑戦で、ゲーム『Adventure』が鍵であると知ったことは除いてもいいかもしれませんが)。

例えば、1つ目の挑戦の「後ろ向きに進む」は、「それだけなの?」という感じ。ご指摘の通り、『シャイニング』を取り込んだ2つ目の挑戦は気が利いていたけれど、勝つための実際の鍵が……わたしがこの部分についてとても強い思いをもっていることは知ってますよね。

本当の問題は、挑戦に勝つための秘密が、「ジェームズ・ハリデーが愛していたヴィデオゲームや映画を、ハリデーと同等の偏執傾向とオタクレヴェルで知っていること」ではなく、「ハリデーの私生活を極めて深いところまで知っていること」だという点です。かつてハリデーが好意をもっていた女の子にキスをしなかったということが、すべてのことを左右するというように。そんなことが? わたしはここで、ジェンダーの問題について語りたくはないんですけど。

JT: いやいや、ジェンダーの問題を取り上げましょう。

VT: わかりました。じゃあ、キーラから始めましょう。キーラは、ハリデーと一緒にオアシスを運営していたオグデン・モローの妻ですが、ふたりが結婚する前に、ハリデーはキーラに対して特別な感情をもっていて、1回デートをしたことさえあることが判明しますよね。

でも、デートはうまくいかなかった。わたしたちはその理由について、ハリデーがやるべきことをしなかったからだと考えるように誘導されます。ハリデーはあまりにも不器用で、キーラをダンスに誘うことができず、あまりにも内気なため行動を起こすことができなかったのです。

この映画における2つ目の挑戦は、この記憶を修正するというようなものです。キャラクターたちはキーラを探し出し、一緒にダンスしたりしなければなりません。このことを非常に不愉快に感じる主な理由は、わたしたちには、キーラがそんなハリデーを本当は愛していたのか、あるいはモローとの関係がまったくうまくいっていなかったのか、といったことについて何も知らないのに、もしハリデーがあのとき違うように振る舞っていたら、もちろん物事は違っていただろう──と信じ込まされることです。

もしハリデーが適切な裏ワザ(チートコード)を適切なタイミングで使ってさえいれば、キーラを自分の“賞品”として得ることができただろうといった話の流れには、うんざりです。女性にも行動する力があることを否定し、女性を勝ちとるべき戦利品として描いているからです(少し脇道に逸れますが、ナンパの腕を競い合う人たちも同じような考え方をしています)。「アルテミス」についてはどう思いましたか?

JT: アルテミスは興味深いキャラクターだね。彼女は素晴らしい。ただし、ふたりが現実世界で会うまでの話だけれど。このときから彼女は矛盾するようになりますよね。全能で、思想を貫く抵抗勢力のひとりであり、オアシスが邪悪な企業の手に渡らないように戦っていると信じていたのに、彼女が実際に必要としていたのは男性に救い出してもらうことだった。

これは、ギーク文化の祝福があるべき姿ではないと思う。オアシスでは、それぞれが自分のアヴァターをもち、誰もがヒーローになれる。アルテミスの「現実の姿」が明らかになった途端に、この映画は、陳腐で退屈なティーンエイジャーの恋愛物語になってしまう。それまでは本当に素晴らしかったんだけど。

VT: 同感です。アルテミスが原作を超える役割を演じていたところは好きでしたが、関係がうまく描かれていません。最後にふたりがキスをしなければ、どれほどよかったかと思っています。たぶんこの映画は、80年代のティーンエイジャー向け映画のオマージュを狙っていたのでしょうね。つまり、男の子がいつでも意中の女の子を手に入れる映画。アルテミスが最初にパーシヴァル(主人公のアヴァター)を突き放したときには、もう少しで、こうした表現が打ち砕かれそうになっていたんですけど……。

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JT: じゃあそろそろ、この映画が、ぼくたちの華々しい仮想現実(VR)の未来をどのように扱っているかを考えてみたいと思う。原作小説はしばらく前まで、映画化できそうもないと見られていたよね(小説が書かれる前から映画化が計画されていたことは抜きにして)。このような世界をかたちにできるとは、これまで考えられていなかった。しかし、『レディ・プレイヤー1』の試みはかなりいい線を行っていると感じる。どのくらいうまく表現されていたと思いますか?

VT: まさにわたしが気に入っているのはその点です。VRをフルに活用してオアシスを表現したのは、素晴らしい出来栄えであることを素直に認めます。現実世界と仮想世界の間の移り変わりもうまく処理されていますし、どのアヴァターも素敵です。オアシスのさまざまな世界はどれも魅力的です。

ハプティックボディスーツなど、映画で想像されている技術もいいと思います。人類が破滅させた薄汚い世界から逃れるためのVRへの過度の依存や、これほど広範に利用されている技術が、利益だけを動機として動く企業の管理下に陥る問題など、技術のマイナス面もうまく扱っています。

JT: ときどき『ファイナルファンタジー』(正確は2001年に公開された映画版)の非常に長いカットを、ややうんざりするほど見せられているような気分になったんですよね。これは厳しい意見かもしれないけれど。

視覚的には『レディ・プレイヤー1』は、もっと退屈で冷たい感じになる可能性もあり得たと思うけれど、目を見張るほど壮観だった。アニメーションは実に素晴らしく、仮想の世界は滑稽なほど目まぐるしい。ぼくはこの映画をIMAXで観たんだけれど、IMAXはまさにこのために生まれた上映方式だといえる。興味深いディテールはとてもたくさんあるし、気の利いたジョークのいくつかは、視覚的な豊かさのなかにほとんど埋もれてしまうほどだった。

そうは言っても、ぼくはスタックパークでもう少し時間を過ごしたいと感じたかな。動かないトレーラーハウスが積み上げられた塔をウェイドが伝い降りているところをカメラが追っていく冒頭のシーンはスリル満点だった。同じことをもう一度やりたいとは思わないけれどね。

VT: オアシスは、VRがもつ可能性を正確に表現しているとは思う?

JT: やや、マーク・ザッカーバーグ的だったかな。ザッカーバーグが2017年にステージ上で、10億人にVRを体験させたいと言ったのを覚えてますか? それについては、うまくいくことを祈っている。「セカンドライフ」のVRヴァージョンは数年前に必然的な終盤を迎えたようだけれど、ぼくはそれが、少なくとも短期的・中期的にVRが向かう方向だとは思っていないんだ。

『レディ・プレイヤー1』に隠されている筋書きの主要なポイントは、現実世界がまさに崩壊しているということだと思う。こういう厭世主義は個人的には好みだった。拡張現実(AR)、あるいは少なくとも現実世界に双方向的なレイヤーを追加する技術(まさに『ポケモンGO』)こそ、業界が目指しているものだよね。ARヴァージョンのオアシスができたとしたら? すぐにでも試してみたいよ。

VT: わたしはVRのオアシスをすごく試してみたい。『レディ・プレイヤー1』と同じくらい優れたものであればなおさらですよね。ただし、それは大きな賭けだと思う。わたしはまだ、実際にうまく機能する「ソーシャルVR」を試したいとは思いません(特にザッカーバーグが提供するものにはまったく関心がありません)。だからこそ、おそらくARが今後の進む道になるだろうという点では同じ意見です。少なくとも、隣にいる人にまだ実際に話しかけることができるわけですから。

そろそろ話をまとめましょうか。ほかの人々にこの映画を見に行くことを薦めますか?

JT: ええ、薦めますね。ただし、これまで語ってきたことに注意してもらうことが前提。ぜひIMAXで観てほしいね。お子さんを連れて行くのもいいでしょう。ただし、期待しすぎないように。


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TEXT BY JAMES TEMPERTON AND VICTORIA TURK

TRANSLATION BY MAYUMI HIRAI/GALILEO