映画『レディ・プレイヤー1』は最高のエンタメだが、そこには空虚さも漂っていた:『WIRED』US版レヴュー

80年代カルチャーへのオマージュに溢れた映画『レディ・プレイヤー1』が日本でも公開された。観客に童心に返って映画を楽しんでもらうというスティーヴン・スピルバーグ監督の狙いは成功しているものの、登場人物の描写にはいささか不満が残るのだという。『WIRED』US版による辛口のレヴュー。
映画『レディ・プレイヤー1』は最高のエンタメだが、そこには空虚さも漂っていた:『WIRED』US版レヴュー
PHOTOGRAPH COURTESY OF 2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.

映画『レディ・プレイヤー1』の冒頭で、ウェイド・ワッツ(タイ・シェリダン)は障害物だらけの迷路のような空間を抜け、叔母の陰気なアパートからオハイオ州コロンバスのスラム街「スタックパーク」に向かっている。ウェイドの声で、「2045年、この辺りはどこも荒れ果てている」というナレーションが入る。干ばつや暴動が起き、貧困層は増える一方だ。

ただし、ここで重要なのは、ウェイドの機械的で無感情な解説ではない。このシーンはスティーヴン・スピルバーグの最新作の世界観を紹介するための視覚的かつ時間的なオリエンテーションで、スクリーンには2045年に使われているテクノロジーが映し出されていく。

ピザを配達するドローンが音を立てて飛び回り、背景にはゲーム用ボディスーツの巨大な動画広告が流れる。そしてウェイドが下に降りていくにつれ、あらゆるところに仮想現実(VR)があることが明らかになる。

スタックパークだけでなく、世界全体に暗い空気が漂っており、逃げ場はVRのヘッドセットのなかにしかない。仮想空間「OASIS(オアシス)」は無限の可能性であり、人々はここでボクシングの試合からシャンパンを片手に鑑賞するストリップ、バットマンとのエヴェレスト登山まで、何でも好きなことを楽しめる。オアシスは広大な広がりをもつ仮想世界(メタヴァース)なのだ。

しかしVRのなかですら、すべてが完全なわけではなかった。オアシスを生み出したのはジェームズ・ハリデー(マーク・ライランス)という80年代に取り憑かれた人付き合いの苦手なプログラマーだが、彼は死ぬ前に大がかりなイースターエッグ探しを思いついた。オアシスのどこかに3つの鍵を隠し、すべてを見つけた者には、この途方もない価値のあるVRのプラットフォームそのものを授与するというのだ。

“卵探し”は何年にもわたって続いており、「ガンター」(egg hunterの略だが「上品な場所では決して使ってはいけない単語」だそうだ)たちは巨大企業IOIより先に、この挑戦を成功させようと必死になっている。IOIを率いるノーラン・ソレント(尊大で強欲なこの男を演じるのはベン・メンデルソーンだ)がオアシスを手にすれば、そこでの自由は奪われてしまうかもしれないからだ。

ウェイドもそんなガンターのひとりだ。オアシス内ではパーシヴァル(アーサー王伝説に出てくる聖杯探しで有名な騎士)という名をもつ。彼はエッグの隠し場所の手がかりを得るために、空いている時間はすべてハリデーの生涯の研究に費やしている。

そして、とうとう手がかりを見つけたウェイドと仲間たちは、オアシスでもコロンバスでも、ドローンのようなIOIの傭兵たちに追われることになる。一方で、ハリデーの人生を追いかけたことにより、ウェイドは70年代後半から80年代前半にかけてのポップカルチャー(ゲーム機の「Atari 2600」、さまざまなSF作品に出てくる宇宙船、そして思い出すだけでドン引きしてしまう『サタデー・ナイト・フィーバー』のディスコダンス)の歩く百科事典となっていた。

オタク的な楽しみが強調されすぎ?

しかし、ここに映画のつらいところがある。2011年に発表されたアーネスト・クラインによる原作小説『ゲームウォーズ』のオアシスは、80年代に青春時代を送った世代には懐かしいものだった、同時に、この小説が提示したVRの可能性を巡るヴィジョンは、それを実現しようとする熱心な開発者たちに刺激を与えた。

業界大手Oculus VRの創業者パルマー・ラッキーは3月27日に行われたプレミア上映会の会場から、「うちのスタッフ全員に『ゲームウォーズ』の本を配ったのにはちゃんと理由があったんだ」とツイートしている。

しかし「よし、バトルだ!」といった興奮が冷めると、なんと言うか……そこまでなのだ。そこには80年代のモノが溢れているが、登場人物の描写は深みに欠けていて、物足りなさを感じてしまう。

映画の脚本(ザック・ペンとクラインが手がけた)は原作の欠点を補ってはいる。特に主人公のキャラクター性はよくなった。しかしそれでも、オタク的な楽しみを全面に押し出し過ぎているという感じは否めない。

ただ、スピルバーグは気にしてはいないようだ。彼はいつものように過去の心地良さに身を預け、若きインドア世代が時間つぶしをするための超大作をつくり上げた。製作・配給は、ゲーム世界ものとしては『シュガー・ラッシュ』以来で最大のヒットを目指すワーナー・ブラザースである。

深みに欠けている登場人物の描写

結果はというと、少なくとも映画のなかのVRシーンでは、80年代の映画とゲームとアニメのカルトたちが集結して、最高のアクションを繰り広げる。アイアン・ジャイアント! フレディ・クルーガー! ルーニー・テューンズ! DCコミックス! 『ビートルジュース』! 『AKIRA』! (あとは『バトルトード』とか?)

ある戦いのシーンでは『ストリートファイター』が再現され、リュウの波動拳やガイルの蹴り技が繰り出される。そしてこれに大ウケする観客がいる一方で、元ネタを知らないため何が面白いのかまったく理解できない集団もいる。

とにかく、こうしたキャラクターによって現実世界の人間の印象は薄まり、スピルバーグお得意の根性のある子どもたちは、外の世界では段ボールのように薄っぺらい存在になってしまう。オアシスでのウェイドの親友のエイチは、現実世界ではヘレン(リナ・ウェイス)という名前の黒人女性だ。しかし、オアシスではサイバーパンクの怪物のような彼女も、VRのヘッドセットを外して現実世界に戻ると、郵便配達のクルマにみんなを乗せて走り回る以外はほとんど何もしない。

一方、ウェイドのライヴァルにして恋の相手でもあるアルテミスは、現実世界の自分はオアシスでの姿からはほど遠いという理由で、初めは彼の気持ちに応えようとしない。もちろんご想像の通り、本物のサマンサ・クーパー(オリヴィア・クック)はアヴァターそっくりで、小悪魔のように魅力的だ。ちなみに、VRでは地球の反対側に住んでいる人とも繋がることができるが、ウェイドとサマンサはどちらも都合よく、IOIの本社のすぐ近くに住んでいる。

ほかにはダイトウ(森崎ウィン)とショウ(フィリップ・チャオ)という仲間がいて、VRではそれぞれ忍者と将軍だ。彼らは現実世界では日本人で……それ以外はよくわからない。いや、確か片方は天才児で、もう片方は瞑想が趣味とかいう設定だった。

キャストは素晴らしいが…

正直、残念だ。登場人物は基本的なところで原作と同じだが、現実世界でもきちんとした人格を与えられるのは、主役で白人のウェイドとサマンサだけで、黒人の女の子とオタク2人は主人公たちの冒険の脇役でしかない。『グーニーズ』[編註:スピルバーグが製作総指揮を務めた1985年のアメリカ映画]では全員に個性があった。しかし、この映画の仲間たち(あだ名は「ハイ・ファイブ」だ)は、まるで空っぽの鋳型のようだ。

誤解のないように言っておくが、誰も「悪い」ということではない。脇役のキャストは本当に素晴らしい。メタルファンの中学生のノートのいたずら書きをVRで具現化したオアシスの住人I-R0kを「演じた」T.J.ミラーは、モーションキャプチャーでも自分をそのままさらけ出していいのだと思わせてくれる。

ソレントの部下フナーレ・ザンダーを演じたハナ・ジョン=カーメン(SFドラマの『ブラックミラー』にも出ていた)のクールさも見事だ。そして過去のフラッシュバックでは、サイモン・ペッグとライランスが、オアシスを開発した会社の共同創業者としてのぎくしゃくした関係を、ヴェテランらしく安定した演技で見せている。

しかし、中心となるキャラクターの不十分な人物描写と、VRの世界で戦いながら実際には雨模様のコロンバスをヘッドセットを着けて歩いている人々の間抜けな映像を見る限りでは、『レディ・プレイヤー1』には往年のアーケードゲーム『ギャラガ』の1面程度の深みしか感じられない。

ウェイドは映画の冒頭で、「人々は何かをしたくてオアシスにやって来る。そして、そこで自分が何になれるかを見つけて、オアシスに残る」と言う。この言葉は2018年のVRにも当てはまるだろう。アヴァターを使ったVRチャットは、現代でもオアシスのような気分を少しばかり感じられる場所だ。そこではヒース・レジャーのジョーカーや『キング・オブ・ザ・ヒル』のハンク・ヒル、その他たくさんのアニメキャラクターを見つけることができる。

童心に返って楽しめる映画ではあった

VRは自分とは別の誰かになりたいという願望を叶えてくれる。それは映画のなかでは、ファンサーヴィスと一大スペクタクルの両方を実現するための場だ。一方で、メタヴァースはパーシヴァル(ウェイド)とエイチ(ヘレン)の間に生まれた友情のような本物の繋がりも可能にする。こうした関係が現実世界にも影響を与える可能性はある。しかし『レディ・プレイヤー1』は、そこには踏み込まない。

それはスピルバーグの狙いではないからだ。これまでもそうだった。彼が目指したのは、観客に童心に返って映画を楽しんでもらうことである。そしてこれに関しては成功している。作品はVRという難しい設定を克服し、お決まりの登場人物が、ただただ楽しそうにはしゃぎ回る、ガラクタ集め競争の映画になっている。ぎこちなくなる会話も含めて、とにかく派手に騒がしくやることで、オタク文化の歴史はこうあるべきという娯楽大作ができ上がったのだ。

もちろん犠牲になったものもある。ハリデーはアーカイヴされた記憶のなかで、「昔はよかった」と言っている。「昔に戻れないものだろうか。とにかくできる限りの全速力で」

オアシスと同じように、『レディ・プレイヤー1』も過去のヒーローたちを保存するためのエミュレーターだ。しかし記憶が色あせたとき、そこにはピクセルしか残らない。どれだけ早く過去に戻っても、すべてを再び元に戻すことは不可能なのだ。


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TEXT BY PETER RUBIN

EDITED BY CHIHIRO OKA