エンタメの巨匠スピルバーグ、再び降臨──映画『レディ・プレイヤー1』池田純一レヴュー

80年代文化へのオマージュに満ちた映画『レディ・プレイヤー1』で、「エンタメの名人」としてのスティーヴン・スピルバーグが帰ってきた。作品は高揚感と多幸感に満ちている一方で、「社会派スピルバーグ」らしいプログレッシヴかつインクルーシヴな側面も内包していた。白人オタクの独白物語だった原作は、いかに生まれ変わったのか。同じく80年代的なものをモチーフにした『ブラックパンサー』との相違点は。デザインシンカー・池田純一が読み解いた。
エンタメの巨匠スピルバーグ、再び降臨──映画『レディ・プレイヤー1』池田純一レヴュー
PHOTOGRAPH COURTESY OF 2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.

エンタメの巨匠スピルバーグが帰ってきた。

『E.T.』や『インディ・ジョーンズ』のような、ワクワクしながらも、ハートウォーミングな世界。

『グーニーズ』や『ジュラシック・パーク』のような、ヒヤヒヤしながらも、ハッピーエンドの世界。

あのころのスピルバーグが帰ってきた。

あのなんとも言えないくらいスペクタクルの快感を与え続けていたころの、ただただひたすら「爽快だった」ころのスピルバーグ。長らくこうした手放しで楽しめるスピルバーグ作品はご無沙汰だっただけに、この『レディ・プレイヤー1』の楽しさは格別だ。

開始早々に流れてきたヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」を耳にした瞬間、堪らずニヤニヤしてしまったが、結局、この高揚感は終幕まで途絶えることはなく、なんとも多幸感に満ちた映画だった。

さすがはスピルバーグ。

なんだろう、あぁ、いいお湯だった!、というのが鑑賞後の第一声といえばよいか。そんな感じなのだ。

だから、楽しい映画を見たい!という人にはとにかくまずは観てもらいたい。それくらい往年の、「80年代」のスピルバーグ映画の楽しさを満喫できる作品だ。この映画はワーナー・ブラザースが配給元なのだが、夢を売ろうとする点で、現代人にとっては、スピルバーグこそがウォルト・ディズニーだった。そう確信したくなる映画だ。

ところでいま、とてもスピルバーグらしい作品、と言ったけれど、その「スピルバーグらしさ」は、決して「往年」のものだけということではない。「近年」のスピルバーグらしさ、たとえばこの3月末に公開された『The Post』(邦題は『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』)にも見られるような、「社会派のスピルバーグ」の姿も、『レディ・プレイヤー1』のなかできちんと見かけることができる。

「エンタメ」と「社会派」のベストバランス

これは最後まで観終わってから、じわじわと感じてきたことなのだが、この『レディ・プレイヤー1』という映画は、往年の80年代にピークを極めたドキドキワクワクの「エンタメのスピルバーグ」と、90年代以降の『シンドラーのリスト』や『プライベート・ライアン』以後のシリアスな「社会派のスピルバーグ」の両方が、うまく混ざりあった稀有な作品といってもいいのかもしれない。

その限りで、スピルバーグ作品への愛を隠さない80年代ポップカルチャーの大ファンである原作者アーネスト・クラインが、彼が描いたVRの未来にスピルバーグを引きずり込んだのは大正解だった。多分、こんな未来のVR空間で80年代のポップカルチャーを渉猟しまくるという、強引でハッちゃけた設定でもない限り、手放しに「エンタメの名人スピルバーグ」に再会できることはなかったのではないか。

なにしろ、この映画では「80年代の再演」そのものが主題のひとつであり、同時に物語の謎を解く鍵にもなっているからだ。誰もが「にわか80年代マニア」になっても構わない、むしろそうなることが推奨されるのが『レディ・プレイヤー1』の世界だ。スピルバーグからすれば、80年代のかつての自分をてらいなく解き放つための免罪符を、あらかじめ手に入れたようなものだった。

4月18日のジャパンプレミアのために来日したスティーヴン・スピルバーグ監督。. ENTERTAINMENT INC.PHOTOGRAPH COURTESY OF 2018 WARNER BROS

4月18日のジャパンプレミアのために来日したスティーヴン・スピルバーグ監督。. ENTERTAINMENT INC.

実のところ、21世紀に入ってからのスピルバーグは、エンタメからは多分に距離のある、社会的意義のある映画を世に送り出すことに力を注いできていた。だがそれは観客の側からすると、最近のスピルバーグはシリアス一辺倒であり、とにかく観て楽しい!と素直に思える作品に出会えなくなったことも意味する。もちろん、21世紀の現代という時代が、かつての80年代のように浮かれた気分を与えてくれないことも原因なのかもしれないが。

上映中の『ペンタゴン・ペーパーズ』もそうした作品群の一つだが、『リンカーン』や『ブリッジ・オブ・スカイ』、あるいは『アミスタッド』や『戦火の馬』のように、まるでオリバー・ストーンの向こうを張るかのように、アメリカ史における大事件を映像として再構成して後世に伝えること、そうして歴史をひも解く道筋を後続の人びとに残すことを自らの使命としているようなのだ。

「枠物語」であることが暗示するもの

だが、こうしたペーソス溢れる歴史観は、期せずして80年代文化のパスティーシュとなった『レディ・プレイヤー1』のなかでも随所に見え隠れしている。スピルバーグにとっては、この映画は80年代アメリカを描いた歴史物語でもある。ただ、その80年代文化の形成にすでに自分自身が関わってしまっていたため、「未来において80年代を回顧する物語」という搦手からめての設定を用いるしかなかったわけだ。

映画のなかに、「OASIS」という仮想現実(VR)ワールドを組み込むということは、物語のなかでさらに物語を語る、いわば一種の枠物語であり、そこから必然的に、この映画とわたしたち鑑賞者との間の関係を何かしら暗示しているのでないかと思わされる。そのような一段上から物語を俯瞰するメタな鑑賞視点を適宜意識させられてしまってもおかしくない。

実際、この映画を見ていると、90年代に最初のブームを迎えたVRという「未来語り」が、そもそもその「未来観」を生み出す上で80年代文化の薫陶を著しく受けていたという事実にたどり着く。さらに、そこから、2回目のVRブームである2010年代後半の現在において、ではいま何を気にすべきか、という類いの示唆も、この映画は与えてくれているようなのだ。

作中で、ハリデーが、イースターエッグの探索を通じて、彼の人生からウェイド/パーシヴァルたちに伝えた経験=教訓は、同時に、この映画の監督であるスピルバーグから原作者のアーネスト・クラインへ、そして一人ひとりの観客に伝えようとしたメッセージのようにも思えてくる──のだが、しかし、少し急ぎすぎた。まずは順を追って、簡単に物語の流れを振り返っておこう。

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映画の舞台は、2045年の未来のアメリカ。主人公は、中西部のオハイオ州コロンバスのティーンエージャー、ウェイド・ワッツ。彼の日常は、パーシヴァルと名づけたアヴァターを用いて、OASISと呼ばれるVRワールドにダイヴすることで占められている。それくらいリアルのコロンバスが荒んでいるからなのだが、彼だけでなく、多くの大人たちもOASISにダイヴして日がな一日、過ごしている。

物語の中核は、そのOASISの開発者=創造者であるジェームズ・ハリデーが他界する際に残した3つの「イースターエッグ(=秘密のメッセージ)」を巡るクエスト(探索劇)だ。ハリデーは、3つのイースターエッグを見つけたものにOASISを譲るという遺言を残したため、多くのプレイヤーがその探索に躍起になった。ソロプレイヤーだけでなくパーティを組んで臨むものもいる。極めつけはオンラインプラットフォーム業界大手のIOI。大企業のIOIは「Sixers(シクサーズ)」という探査部隊(というかほとんど軍隊)を組織し、物量にものを言わせた探索を実行する。

けれども、それほどの探索資源を投下しても、わかったことといえば、第1のイースターエッグを獲得するためのクエストが、OASIS内のヴァーチャルマンハッタンに用意されたカーレースだったことぐらい。ウェイドはパーシヴァルの姿で、そのカーレースにOASISで知り合ったアヴァターの友人エイチとともに参加する。

このカーレースをきっかけに、ウェイド/パーシヴァルは、エイチのほかに、アルテミス、ダイトウ、ショウの5人からなる「ハイ・ファイブ」と呼ばれる仲間を築いていき、彼らとともにハリデーの残したイースターエッグのクエストに乗りだしていく。

その過程でウェイドは、探索のヒントのためにとハリデーの足跡をたどり、そうすることでハリデーの考え方や狙い、はては気分・感情・想いといったところまで、深く関わっていく。イースターエッグの探索は、だから同時に、ハリデーの心を探る旅でもある。そのハリデーの思考/心情を探っていく上での道標となるのが、ハリデーが触れた80年代のポップカルチャーであった。もちろん、そのなかにはスピルバーグが関わった作品も含まれていた。

……と、こんな具合に『レディ・プレイヤー1』の物語は進んでいく。むしろ、この映画は製作のころから、原作に散りばめられた数多の80年代の文化作品(映画、ドラマ、マンガ、アニメ、ゲームなど)がどれだけ実際に画面に登場できるのか、という観点から注目されていた。何が実際に登場するかは観てのお楽しみ、ということにしたいが、日本のエンタメ作品も随所に現われることはすでに報道されている通りだ。

VR漬けの世界における逃避先としての「OASIS」

ところで、社会派スピルバーグは、この世界のディストピアとしての姿を、冒頭の短い時間で簡潔に描写している。

映画冒頭でカメラは、2045年のオハイオ州コロンバスを遠景からとらえ、徐々にそのなかのジャンクヤードのような広場に立つ塔に寄っていく。“Stacks(積み上げ)”と呼ばれるこの「塔もどき」は、アメリカらしくトレーラーハウスを積み上げた、いわば垂直方向に伸びた貧民街のようなものであり、いまどきのタワーマンションのグロテスクな比喩にもなっている。

その塔の中の一室(=トレーラー)から、主人公のウェイドが軽快に降りていく。その途中で目にする人びとは皆、部屋(=トレーラー)の中でゴーグルをかけながら、一人で何やら変な動きを続け、時折叫んでいるようでもある。このシーンだけで、この世界がいかにVR漬けの世界であるかがわかる。

ウェイドのヴォイスオーヴァーでも触れられていた、“bandwidth riots(帯域幅暴動)”が起こったあとの世界、というのも、いまどきの言葉で言えば「ネット中立性ルール」が反故にされて、貧しいものには帯域幅は使わせないという社会的決定がなされた世界ということなのだろう。VRなしでは日々をやり過ごせないという点で、すっかりOASISが精神的インフラ、文字通り「心のオアシス」になっているところで、そのために不可欠な帯域幅を制限するのだから、水暴動や電力暴動のような暴動が帯域幅を求めて起こってもおかしくはない。

要するに、人生の「負け組」が逃避先として選んでいるのがOASISだ。

その逃げた先にまで詰め寄り、彼らの射幸心を煽って多重債務に陥らせたあと、その債務の返済のために、彼らをVR世界で酷使するのが、この世界の悪役としてのIOI。Innovative Online Industries(イノヴェイティヴオンライン産業)という、いかにも(情報化以前の)工業化時代の重工業企業のようないかめしい社名であり、それだけでこの会社の官僚制っぷりが想像できてしまう。

プログレッシヴでインクルーシヴであること

実際、OASISのなかにおいても、工業化社会における鉱山業のような人手を要する重労働は存在し、その仕事に多重債務者を強制的に就けているのがIOIだ。法律的には正しいのだろうが、しかし倫理的に見たとき、はたして正しいといえるのか。このマッチポンプのようなIOIの振る舞いには、映画を見ながら常に疑問を感じさせられてしまう。

だがこうした未来が、むしろ妙にリアルに感じられてしまうのは、いまがすでに、スマートフォンとソーシャルメディアの普及した時代だからなのだろう。街なかで「歩きスマホ」をしている人がいても不思議に思わなくなったことを思えば、街なかでVRゴーグルを着けた人たちが走り回ったり、奇声をあげていたりしていても、そのまま放置されるのが想像できてしまうから。むしろこのあたりは、スピルバーグ一流の寓意的な「社会風刺」としてあえて撮られた場面なのだろうと思えてくる。

その一方で、社会派スピルバーグらしい脚色(アダプテーション)に見えるところは、原作と比べて映画がプログレッシヴ(=進歩的で未来に前向き)でインクルーシヴ(=特定の人びとに対して排他的でなく、門戸を閉ざさない)であるところだ。

原作がウェイドによる一人称視点からの、いわば白人男性ナードの独白物語であったのに対して、映画ではマイノリティを含めたチーム劇に変わった。実は原作に対しては、白人男性ナードがマニアックな知識をひけらかしただけのイタイ小説、という厳しい批判もあった。そのため、ナード以外の人びとも観客として呼び込みたい映画では、そうした点に改変が加えられた。

物語の進行役もウェイド/パーシヴァル一人ではなく、5人の仲間のハイ・ファイブとなった。リアルとヴァーチャル(OASIS)の間を往復するなかで、5人のリアルも、女性、黒人、アジア系などといったマイノリティであることが明らかになる。いまどきのハリウッドらしくダイヴァーシティに配慮されたパーティ編成になっている。プログレッシヴでインクルーシヴというのは、こういうところでリベラルなスピルバーグの面目躍如といえる。

『ブラックパンサー』との共通項

この「プログレッシヴ&インクルーシヴ」の展開は、そのまま境界を越える、あるいは、融合を促すようなダイナミズムを作品にもたらす。エンタメとシリアスドラマが融合していくだけでなく、リアルとヴァーチャル、映画とゲームが、物語の進展とともに少しずつ溶融していき、そうして、エンタメと社会派というスピルバーグのふたつの顔も収束していく。

こうした捻りは、むしろいまという時代性を加味したものであり、その点で、期せずして『ブラックパンサー』と同時期に公開されたのは興味深い。

ともに80年代的なものを物語のモチーフとして参照しながら、『ブラックパンサー』が黒人文化から発したアフロ・フューチャリズムをフィーチャーしたのに対して、『レディ・プレイヤー1』では、白人による80年代懐古主義が中心になった。かたやアース・ウィンド・アンド・ファイアー(『ブラックパンサー』)、かたやデュラン・デュラン(『レディ・プレイヤー1』)といった違いだ。

このアフロ・フューチャリズムと対になる懐古主義として取り上げられたのが、80年代のサイバーパンクだった。

実際、『レディ・プレイヤー1』のなかでは、わざわざ悪漢役のアイロック(i-R0k)に、(イギリス・ヴィクトリア朝時代を回顧する)スチームパンクは嫌いだし海賊も嫌いだ、などと言わせることで、その裏側のメッセージとして、アメリカ人はスチームパンクまで戻らずに、素直にサイバーパンクに戻れば済むことを伝えている。80年代のサイバーパンクこそが、未来を予言した真のバイブルであるという理解だ。

90年代的なVRイメージに立ち返ったワケ

ここから、90年代におけるVRとは、80年代の夢の結実にすぎないことがわかる。そのため、いま再びVRを主題化しようとすると、まずはサイバーパンクの回顧から始めることになる。そして、その原点にあるのが、アップルの「Macintosh(マッキントッシュ)」でもなければ、もちろんIBM-PCでもなく、ヴィデオゲーム機のパイオニアであるアタリだった。

第2のブームを迎えた「現代のVRのイメージ」は、実のところ90年代の反復から始まっているが、その90年代の想像力は、そのときすでに社会環境と化していた80年代文化から、陰に陽に影響を受けていた。現代のVR開発の旗手のひとつであるOculusでは、クラインが書いた原作は、新入社員の必読書にされているという。『レディ・プレイヤー1』は手っ取り早く90年代のVR開発イメージの原点を学び、そこから今日的課題を明らかにする上で、格好の教材なのである。

ここで少し補足すると、作中で扱われるVRは、いまどきの「ARの発展形」のようなものだった。トレッドミルのような移動床やワイヤーによる身体制御など、現実世界の物理的刺激としてのフィードバックが必要となっていたからだ。その点でも、現代のスマートフォンの延長線上で考案されたVR世界となる。

これは90年代に製作された『マトリックス』のように、睡眠状態で意識だけ仮想世界に飛ばすというものとは異なっている。もっともそのようなインターフェイスもIOIでは採用されているようだった。その点で、OASISを利用する際のインターフェイスも、すでに多様なものとなっているようなのだ。

PHOTOGRAPH COURTESY OF 2018 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.

振り返ると、確かに90年代のサイバーカルチャーの出発点には、ハードにしてもソフトにしても、ヴィデオゲームを巡る言説があった。マルチメディアは、PCではなくFC、すなわちパーソナルではなくファミリーのコンピューターから始まると考えられ、家電産業各社がゲーム機開発に堰を切ったようになだれ込み、それらを支持する数多の言説が紡がれていた。

そもそもタイトルである『Ready Player One』とは、当時のアーケードゲーム機でコインを投じたあとに見られた初期画面に現れた言葉だった。「用意はいいかい?プレイヤー(ナンバー)ワン?」といった、いわばプレイヤーに向けたゲーム機=システムからの呼びかけの声だったのだ。

だから、この映画のタイトルとは実のところ、「ねぇ、ゲームやらない?」ぐらいの意味なのだ。ゲームへの参加を暗に促すような言葉をタイトルに選ぶあたりに、原作者クラインの深いゲーム愛が感じられるところだろう。クラインにとっては、80年代の最初期のアーケードゲーム機も、未来の2045年における汎用MMO-VRシステムであるOASISも、そこにゲームをやりに行く、という点では等価な存在だ。そしてこうした理解は、2045年の未来はすでに80年代に胚胎していた、ととらえることを観客に促す。

その未来を、VRシステムに不可欠の構成要素であるCGIを広く世に知らしめて、ハリウッドのブロックバスターの向かう道を大きく切り替えた『ジュラシック・パーク』を監督したスピルバーグが描くのだから、因果は巡るというものだ。

80年代のコマーシャリズムの夢が現出

過去と未来は、こうして入れ子状に循環する。

原作者のアーネスト・クラインは、ヴェテランの脚本家であるザック・ペンとともに脚本開発に参加したが、今回の映画化にあたっては、原作の「趣旨」や「雰囲気」、つまりは「精神」を引き継ぎながらも、映像作品とするのに相応しいネタへ切り替えている。

たとえば、80年代のポップカルチャーへのオマージュという点では、映画のなかでの第1回のクエストは「ヴィデオゲームへの愛」、第2回のクエストは「音楽への愛」という感じに切り替えられている。それらがVRの時代を迎えたらどのようなイメージになるのか、デモンストレートしていて、素朴に楽しい。

キングコングの登場も、あれはどちらかというとリアルな雰囲気のドンキーコングが、3DのVRマリオカートに出現したらどうなるのか、といった感じのシミュレーションだ。『インセプション』の中で見られたように、高層ビルがせり上がって出来上がったヴァーチャルなマンハッタンを舞台に、ハイパーリアルなカーレースが展開されるが、クラッシュしたクルマがすべてコインになってザックザックと散らばっていくのを、残ったプレイヤーがしゃにむに回収するあたりは、そのままマリオの世界である。そのような遊びが随所に見られる。OASISの世界は、80年代のコマーシャリズムの夢がそのまま研ぎ澄まされ、グレードアップされた世界として現出している。

もっとも原作者のクラインによれば、映画の脚本づくりにあたり、原作のなかにあった80年代トリビアを随分削ったらしいのだが、しかしその多くは背景やコスチュームといった小ネタのヴィジュアルとして復活している。その点では、撮影や美術のスタッフにも原作を勧めたスピルバーグの采配が功を奏したことになる。

今回の映画でも、スピルバーグ組とでも呼べるような、スピルバーグとのつきあいの長い職人が参加している。画面の密度の高さは撮影監督のヤヌス・カミンスキーや美術監督のアダム・ストックハウゼンの妙技となるが、特に音楽監督のアラン・シルベストリの貢献は大きい。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の音楽監督でもあったシルベストリの参加のおかげで、この世界は80’s(エイティーズ)の空気を完璧に纏うことができた。むしろ音楽こそが、すなわち聴覚こそが、環境把握のための鍵となることに気づかされる。それくらい視覚以上に聴覚への刺激が80年代的であった。

体現された現代の「記憶観」

もうひとつ、この映画が80年代のスピルバーグ作品らしいところは、影の主人公であるハリデーを通じて、人生の意味や、いかに人は生きるべきか、という問いにも答えているところにある。どこか教訓的なのだ。

映像アーカイヴを通じて、ハリデーの真実に迫る流れは、アメリカ文学によくある、日記や手記を頼りに実際にその場所に出向き、その筆者の思考の跡を辿る旅を模している。むしろウェイドたちとともに視聴者も、クエストという名の、ハリデーの悔い改めの旅に付き合わされることになる。

始まりのころこそ、「アウト・オブ・ザ・ボックス」思考が大事!という具合に、天才に必要な才能がOASIS運営の後継者選びの要件のように扱われていたが、そうしたツカミの部分を過ぎると、むしろ一種のホラーのようにウェイドたちはハリデーの亡霊に憑かれて、彼の成仏のための巡礼の旅に無理矢理引き込まれていくことになる。

だからこの物語は、ハリデーを想い追悼する物語でもあるし、その限りで、ネット上の痕跡=ログを含めて、その人の記憶としてとらえる現代の記憶観のプレゼンテーションのようにも思える。イースターエッグのクエストをそのようなハリデーの心情をたどる旅に転換したのは、仮にその際に80年代カルチャーの知識が必要だとしても、それほどおかしなことではなかった。

というのも、この映画を観終わって、80年代ポップカルチャーは、いまでも世界中の多くの国で使える共通の記憶、すなわち“通貨”であると強く感じたからだ。

共通通貨としての80年代カルチャー

それは80年代というのが、インターネット以前の、テレビを中心にしたマスメディア文化の最盛期であり、最後の時代であったからなのだろう。誰もがマスメディアを通じて同じ文化作品に触れていただけでなく、マスメディアに触れていないときに加えられる、個人の選択による文化的ノイズが(インターネット以前ということもあり)、まだそれほど大きなものとはなっていなかった。

だから、2045年のVRシステムで参照される文化現象が80年代のものであるのは、それがOASISの創造者ハリデーが好んでいたからという恣意的な理由からだけではなく、この映画を実際に観ている人たちにとっても、80年代を、誰もが納得できるマスカルチャーの時代として妥当なものと感じることができたからなのだろう。80年代とはそのような文化的共通通貨なのである。

文化的思潮としての時代の名前はまだついてはいないけれど、確かに80年代は、90年代以降のサイバーカルチャーを用意した時代として今後、文化史的研究が進むのかもしれない。19世紀末ウィーンの研究が、20世紀の文化に与えた影響を探ることに繋がるのと同じように。

このようにこの映画は、スピルバーグを始めとして大事な文化遺産が多数詰まった宝石箱である。その宝石箱の中身を一つひとつ確かめていく楽しみ。それは80年代の過去とVRの未来を結びつけて構想するために、スピルバーグがわたしたちに差し出したイースターエッグだったのである。


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TEXT BY JUNICHI IKEDA@FERMAT