MRJを考える際にどうしても気になるのは、ホンダが開発し、好調な滑り出しを見せたホンダジェットだ。あるいは、MRJのライバルであり、リージョナルジェット旅客機大手のブラジルのエンブラエル。ホンダジェットは、エンブラエルは、なにがMRJと違っていたのだろう。ええい、全部訊いてしまえ――ということでオリンポス社長、四戸哲氏インタビュー、第5回です。

(前回はこちら

<b>四戸 哲</b>(しのへ さとる)有限会社オリンポス代表取締役。1961年、青森県三戸郡生まれ。小学生時代に見た三沢基地でのブルーインパルスのアクロバット飛行を見たことが航空エンジニアを志すきっかけとなった。学生時代のヒーローは航空エンジニアの木村秀政氏。高校卒業後に木村氏が教授として在席している日本大学理工学部航空宇宙工学科に入学し、日大航空研究会に所属。卒業後、日本には極めて珍しい、航空機をゼロから設計する会社としてオリンポスを創業。木村氏を顧問に迎える。以後、軽量グライダー、メディアアーティスト八谷和彦と、『風の谷のナウシカ』に登場する架空の乗り物「メーヴェ」を模した一人乗りのジェットグライダー(<a href="/article/interview/20131204/256706/" target="_blank">こちら</a>)の機体設計・製作を担当。国産初の有人ソーラープレーン「SP-1」、「95式1型練習機(通称・赤トンボ)」の復元プロジェクト、安価な個人用グライダーの開発・製造を行っている。
四戸 哲(しのへ さとる)有限会社オリンポス代表取締役。1961年、青森県三戸郡生まれ。小学生時代に見た三沢基地でのブルーインパルスのアクロバット飛行を見たことが航空エンジニアを志すきっかけとなった。学生時代のヒーローは航空エンジニアの木村秀政氏。高校卒業後に木村氏が教授として在席している日本大学理工学部航空宇宙工学科に入学し、日大航空研究会に所属。卒業後、日本には極めて珍しい、航空機をゼロから設計する会社としてオリンポスを創業。木村氏を顧問に迎える。以後、軽量グライダー、メディアアーティスト八谷和彦と、『風の谷のナウシカ』に登場する架空の乗り物「メーヴェ」を模した一人乗りのジェットグライダー(こちら)の機体設計・製作を担当。国産初の有人ソーラープレーン「SP-1」、「95式1型練習機(通称・赤トンボ)」の復元プロジェクト、安価な個人用グライダーの開発・製造を行っている。

編集Y:私は航空行政は素人で、「MRJの開発が遅延して、型式証明取得になかなか進めないのは、米連邦航空局(FAA)がなにかこう、意地悪でもしているんじゃないか」という印象があったんです。だって、三菱だよ、日本の三菱が造っているんだよ。なにか自分ではどうしようもない、外的な阻害要因があるんじゃないの? と。

 でも、四戸さんのお話を聞いていると、日本の行政にも三菱にも歴史的経緯で形成された構造的な問題があって、それを解決できないままにここまで来てしまったんだと。そして、その問題は、とにもかくにもMRJを開発し、さらに歯を食いしばって次世代機を開発することでしか突破できない。前回はそこまで伺いました。

四戸:いま開発遅延と言われましたが、実際に開発がスタートしてからの期間でみると、MRJの開発は「遅延した」というよりも、ゼロから旅客機を開発するのに「必須かつ健全な時間がかかっている」だけだと思います。

Y:あ、そういうものですか!

松浦:そこで、日本のもうひとつの航空機開発プロジェクト「ホンダジェット」が浮かび上がってくるんです。

 色々な意味でホンダジェットは、MRJと対照的です。ホンダは航空機研究プロジェクト開始から30年以上の時間をかけています(藤野氏の「ホンダジェット」の開発開始は1997年)。そして、ホンダジェットの開発拠点は最初から日本ではなく米国に置かれました。さらには途中で、実験機を作って飛ばしている。前回、四戸さんがおっしゃった、「開発のステップ」を刻んでもいるんですよね。そして、ついにFAAの型式証明を取得し、2015年から量産機のデリバリーが始まっています。

ホンダジェット(画像:ホンダ)
ホンダジェット(画像:ホンダ)

ホンダジェットの成功は「ひとりのエンジニア」

四戸:そこには、重工メーカーとは異なる自動車メーカーのフットワークの軽さがあったと思います。そしてもう一つ、ホンダエアクラフトカンパニー社長を務める藤野道格さんという人の果たした役割の大きさを、きちんと評価しなくてはいけません。ホンダジェット成功の理由の一つは、藤野さんという、「飛行機を創りたい」と切望する個人が主導したことだ、と私は見ます。

Y:えっ、個人が主導することが成功の秘訣……ですか?

四戸:ホンダジェットは、ホンダの経営陣が「やるぞ」と決断して始まったプロジェクト「ではない」ですからね。藤野道格という「ひとりのエンジニア」の欲求で始まったプロジェクトです。もちろん彼は「皆さんの協力があって…」と話すでしょうが、ともかくも彼がいないと始まらなかったことに間違いはありません。

 当初は航空機開発に決して好意的なばかりではなかったホンダ経営陣に柔軟に対応し、粘り強く戦略的に働きかけて開発を続け、徐々に既成事実を積み重ね、製品化に持ち込んだわけです。藤野さんがホンダの資金を使って自分の望む飛行機を具体化したと言っても過言ではありません。

 ちょっと話はそれますが、2000年代半ばに、富士重工業(現スバル)がビジネスジェット機を製造したことがありました。アメリカのベンチャー企業が当時開発中の「エクリプス500」の主翼製造を、富士重工が担当していたのです。

 この機体はホンダジェットと同クラスです。おそらくは陰りを見せる防衛需要への依存から脱却するために、自家用機市場への進出を探ったものでした。しかし開発した企業は倒産し、富士重工は約100億円の損失を出して事業は中断しました。工場に残るたくさんの主翼の利用法に関して、弊社にも話が来たことがありました。

 海外の新興ベンチャーの飛行機開発に乗ったこと自体も富士重工にすれば大きな冒険だったこととは思います。しかし中島飛行機にルーツを持ち、戦後もエアロスバルFA-200を世に送り出した富士重工が、エクリプス500のような小型ビジネスジェットを自主開発ではなく海外ベンチャーに頼ったのは、技術力の問題ではなく、「飛行機を作りたい!」という欲求を持つ主体的な個人が社内にいなかったからであろうと想像します。

 そしてこれは三菱のMRJに関してもまったく同じでしょう。一番最初に「俺は新しい飛行機を作りたいんだ!」という意志を持つ個人がいない限り、新型機の1号機は作れないんです。そう、私は思っています。

松浦:藤野さんにはその意志があったと。では、藤野さんという方を、四戸さんは、どのように見ておられますか。

四戸:藤野さんは東京大学の航空学科出身です。研究室は一般向けの解説書をたくさん書いている加藤寛一郎先生のところで、年齢的には私の1年先輩です。

米国で学び、経営陣をエアショーに連れていく

四戸:まず、藤野さんは「日本では航空機設計を学ぶことはできない」と見切ったのだと思います。日本の教育は前にお話ししたとおり専門病ですからね。航空宇宙学科に進学して勉強すれば、飛行機の設計ができるようになると思い込んでいます。でも、実際には飛行機製造の現場で、飛行機を作るという作業を経験し、設計と実際の飛行機との間を埋める経験を積まないと、飛行機は設計できないんですよ。

 かつて東京大学には佐藤淳造さんという有名な航空工学の先生がいらっしゃいました。国土交通省の航空・鉄道事故調査委員会の委員長も務められた方です。佐藤先生の航空機設計の授業を受けていた学生から聞いた言葉があります。「私は君たちに航空機設計を教える資格はない。なぜなら私は飛行機を設計したことが無いからだ」と。

 名言だと思います。東大の航空学科を卒業しても、それだけでは飛行機の設計は無理なんです。

 次に、藤野さんは渡米しました。日本の航空行政は航空機開発ができる体制になっていません。そのことに早くから気が付いたのだと思います。ですからホンダジェットは最初から米国で開発を行っています。

 気が付くにあたっては、おそらく米国でEAAのオシコシエアショーを見学したことがきっかけになったのではないでしょうか。

松浦:実験航空機連盟(Experimental Aircraft Association)という自作航空機を趣味とする人々が主催している航空ショーですね。毎年7月に一週間にわたってウィスコンシン州のオシコシに、全米の自作航空機が集まってくる大規模なお祭りです。ホンダジェットの一般へのお披露目も、オシコシエアショーで行いましたっけ。

四戸:そうです。「航空機を自分で作る」ということを実感したければ、オシコシのショーに行ってその熱気を肌で感じることが絶対に必要です。藤野さんは、「ホンダジェットは技術のデモンストレーションでいい」という経営陣を説得するために、オシコシエアショーをデビューの場に選びました。ホンダジェットに多くの人々が熱狂する様子を経営陣は見て、それで初めて事業化を決断したんでしょう。

 ホンダに限らず、ヤマハもコマツも役員がEAAオシコシエアショーを視察してから一気に航空機開発機運が高まった過去があります。それほどオシコシは魅力的なのです。

 中でもコマツ(当時のコマツゼノア)は、米国の超小型自家用機「BD-5」のエンジンを製造・供給していました。大変高性能なエンジンでしたが、PL法対策で供給を停止し、BD-5そのものの生産も終わってしまったという残念な過去があります。その後コマツは航空機の開発を目指し、私はオリンポスの買収を持ちかけられましたが、条件が合わず流れました。

ホンダジェットは、実際には「フジノジェット」

四戸:話を元に戻すと、渡米した藤野さんはじっくりと、米国の優れた設計者たちから学び、航空機設計のノウハウをしっかりと吸収したんです。その間、いってみれば「社員1人の人件費」ですから、ホンダはお金を出し続けたわけですよ。実際に設計に入るまでの間に十数年は、まったくただの勉強、基礎研究で、利益を生まないどころか、将来の利益を生むあてもない。そこを藤野さんは乗り切ったんです。

 このあたりは、藤野さんという方のしたたかさといいますか、戦略性だと思います。社内で慎重に振る舞いつつ、粘り強く航空研究を進めていったんです。

Y:自分がやりたいことのために、会社をどう利用するかというところで、非常にテクニカルに考え、実行していったと。

四戸:そうです。息をひそめておいて、役員には「たかだか人件費だから、開発費に比較すれば安い」と思わせて研究の芽を摘み取られないようにして、自分は本場の米国でひたすら航空機設計の勉強をする。大型機のロッキードC-5輸送機を設計した方を訪ねて、もう一回住み込みの丁稚といいますか、マンツーマンで指導を受けたそうです(笑)。

松浦:C-5ギャラクシー。なるほど、あれもT字尾翼機だ。

四戸:だから私はホンダジェットは、実際には「フジノジェット」だと思っています。

Y:それ、大変に重要なことではないですか。国の検査制度うんぬんよりも、会社の規模よりも、なにより優れた先達からマンツーマンで、自分の求めるノウハウを学ぶことができる環境、というのが必須だ、と……。

四戸:そういうことです。優れた先達から教えと刺激を受けるというのは、設計者としての自分を伸ばしていくためには大変に大事なことで、藤野さんはそれを米国で実行したんです。私が木村秀政先生や本庄季郎先生から学んだのと同じです。

 マンツーマンの指導を受けることで、前にお話しした飛行機を全体で見る「掴み感」が身に付きます。設計を見て、「あ、これはこうだ」「これは良い」あるいは「これは悪い」と、設計全体を大づかみに把握する「設計感」あるいは「評価感」といっても良いかも知れません。この感覚がないと良い設計はできません。

 これは、三菱重工のMRJに欠けていた部分でもあります。なにしろ前にご説明したとおり、日本の航空産業は米国が無制限に開示する最新技術満載の図面を学ぶことで中毒になってしまいました。その結果、「学ぶのに長けた人」ばかりをエンジニアとして重用しました。そういう人は、「評価感」が身に付いていないんです。評価どころか「正解」だと決まっているものだけを見て仕事をするわけですから、評価の感覚なんて身に付くはずがありません。

 藤野さんの「よし、これで俺はとりあえず軽飛行機は設計できる」と思ったというエピソードは大変重要なマイルストーンです。なぜならば軽飛行機が設計できるスキルがなくて、旅客機を設計できるわけがありませんから。

松浦:バート・ルータンの会社の社是「自作の飛行機を操縦して飛ばないと一人前じゃない」につながる話ですね。ということは、今の三菱重工やスバルに軽飛行機を設計できる技術者が在籍しているかというと……。

いま、オリンポスには大手企業の依頼が続々来ています

四戸:私は、おそらくいないと思います。そしてホンダであっても、藤野さんを置いて他にいたとは思えません。藤野道格という、したたかで戦略的なエンジニアがいたことこそが、ホンダジェット成功の理由なんですよ。

Y:企業勤めの会社員の私からすると、それでも「いや、大組織の資金力や組織力がなければ、飛行機の設計なんてできないはず」という思い込みがつい頭をもたげるのですが。

四戸:実は今、オリンポスは、連日大手企業の方がコンサルティングの依頼にやってくるという状況です。なんで皆さん、こんな青梅の山奥の小さな会社にまでコンサルを頼みにやってくるのか――まあ、私が歳を食ったということもありますし、八谷和彦さんが「オープンスカイ」のような目立つ仕事を私に依頼してくれたので、知名度が上がったということもあるでしょう。でも、これはとても喜べた状況ではないと考えています。

 グランドキャニオンみたいなもので、自分が隆起したんじゃなくて、周りがどんどん浸食され、気が付くと高台としてオリンポスが残ったという感じなんです。

 他所の方がどう思われるかはご自由ですが、私は本気で、自分自身の体験で掴み感・大局観を身に付けている我がオリンポスのスタッフは、三菱重工のエンジニアより優れている、と思っています。それは飛行機一筋でやってきた自負でありますが、同時に大変危険な状況でもあるわけです。

エクリプス500:米国の航空ベンチャー、エクリプス・アビエーション社が開発した6人乗り自家用ジェット機。2002年に初飛行し、2006年から販売が始まったが、2008年同社倒産により一時販売は中断。その後再生したエクリプス・エアロスペース社が引き継ぎ、最終的に260機を生産した。

エクリプス500(画像 英語版Wikipediaより)
エクリプス500(画像 英語版Wikipediaより)

T字尾翼:垂直尾翼の上に水平尾翼を載せた尾翼の形式。前から見るとTの文字の形に見えるので、このように呼ばれる。

ロッキードC-5:米ロッキード(現ロッキード・マーティン)が米空軍向けに開発した大型軍用輸送機。愛称は「ギャラクシー」。1968年に初飛行。当時は世界最大の輸送機であった。現在も米空軍が使用しており、一部の機体は性能増強の改修を受けて「C-5Mスーパーギャラクシー」という名称になっている。

ロッキードC-5輸送機(画像:米空軍)
ロッキードC-5輸送機(画像:米空軍)

BD-5:米ビーディ・エアクラフトが1971年に初飛行させた超小型自家用機。全長4.13m、全幅6.55m、本体重量161kg、エンジン出力70馬力と超小型軽量ながら高性能と流麗なスタイルを両立させた設計で、1970年代に高い人気を誇った。完成した機体と、購入者が自分で組み立てるホームビルト・キットの2種類の形態で販売され、現在も30機程度が米国内を中心に飛行している。日本でも、1970年代に日本コカコーラがコーラ/ファンタの景品としてBD-5の模型飛行機を頒布したので、50代以上の飛行機マニアには馴染みの深い機体である。

スミソニアン航空宇宙博物館別館に展示されていたBD-5(撮影:松浦晋也)
スミソニアン航空宇宙博物館別館に展示されていたBD-5(撮影:松浦晋也)

ブラジルの航空産業は、ドイツの遠い子孫

Y:ところで、そうなると「エンブラエルのあるブラジルってどうなっているの」ということが気になります。日本から見たら、工業国としてのブラジルは、はっきり言って高い印象を持っている人は少ないはずです。ところが今やエンブラエルは国際的なリージョナル機のメーカーとなっています。ブラジルの航空産業は、どうやってこの水準に到達したんでしょうか。

四戸:一般の方は実情を知りませんから、「ええっ、三菱がブラジルに負けるの?」と思うでしょうね。ブラジルの方には本当に申しわけないんですが。

 南米は昔から、戦争に負けた側の避難所だったんです。第二次世界大戦が終わった時、ナチスの残党の一部が南米に逃げたじゃないですか。あれと同じことが技術者でも起きているんです。ですから、南米の基幹産業の中には、ドイツの優れた技術者の薫陶を受けた人達がいて、次の世代を育ててきたんです。

松浦:アルゼンチンが多かったですね。クルト・タンクが行って、それから同じくドイツのホルテン兄弟も弟がアルゼンチンに行きましたよね。

四戸:ホルテンは意固地に無尾翼機にこだわりましたけれど、非常に高い技術力を持っていました。高い技術を持った人がいると、周りにそれを学びたい若者や子どもが集まってくるんですよね。集まってきた連中は、目の前にいるのは憧れの存在ですから、自分もそうなりたいと思います。すると無理に教えなくたって自然と勉強するようになるんですよ。戦争に負けた側の技術者が南米に新天地を求めて、彼らが種子となって、ブラジルの航空産業が始まったんです。

Y:ブラジルの航空産業は、第二次大戦ごろのドイツの航空産業の遠い子孫みたいな感じなんですか。

四戸:そうです。

Y:それは手強いはずだわ。

松浦:ブラジルには、農業用航空機(以下農業用機)の需要もありますしね。エンブラエルはこれまでに「イパネマ」という農業用機を1300機以上生産しています。

Y:農業用機って、こんなカクカクした格好悪いものが本当に飛ぶのか、とか思いますけど……。

四戸:あれもよく設計を見ると、ナチス・ドイツが使ったシュトルヒ連絡機とか、あの辺の超低速で飛んでしかも丈夫で壊れないという機体の系譜につながっているんですよ。

Y:ああ、シュトルヒ。

なぜブラジルは戦い抜いたのか

松浦:もうひとつ重要なのは、ブラジルはあきらめなかったこと。YS-11の時の日本とは違って、あきらめることなく1970年代から七転八倒しながら航空産業を育て、維持してきた。

Y:そんな歴史があるんですか。

四戸:長いんですよ。だから、今はあんなすごい力を出していますけれども、本当によく頑張りましたよね。根底にあったのはきっと危機感ですね。ここで諦めたら外貨の獲得ができないと考えて、必死だったんじゃないでしょうか。

Y:飛行機で外貨獲得……って、本当にブラジルという国に失礼ですが、競う相手は米国はじめ先進国でしょう。よくそんな「大それたこと」を目指し、しかもくじけませんでしたよね。

四戸:でも、1960年代に月に人類を送り込んだアポロ計画を考えれば、ブラジルがゼロから始めて飛行機の輸出国になるんだと考えても、そんな大それたことじゃないと思いませんか。

Y:そういう言い方をすれば、そうですね……。「米国が月に行けるなら、我々が航空機を輸出してもおかしくはない」か。

ホルテン兄弟:ヴァルター・ホルテン(1913~1998)とライマール・ホルテン(1915~1994)の兄弟の航空機設計者。無尾翼機に注目してその理論を発展させ、グライダーから戦闘機に至る幅広い無尾翼機を設計した。第二次世界大戦の終了後、弟のライマールがアルゼンチンに移住。同地で無尾翼機の試作を続け、後進を指導した。

農業用機:広大な農地を持つ国では、種子や農薬の散布に、そのために開発した専用の農業用機を使用している。多くは単発の小型機で、積載力が大きく、低速で安定した飛行が可能で、かつ不整地に短距離で離着陸できる性能を持つ。

イパネマ:エンブラエルが開発・製造している農業用機。初代のEMB200が1970年に初飛行。以来改良を重ね、現在は最新型EMB203が生産されている。

エンブラエル・イパネマ農業用機(画像:英語版Wikipedia)
エンブラエル・イパネマ農業用機(画像:英語版Wikipedia)

シュトルヒ連絡機:ドイツのメーカー、フィーゼラーが、1936年に開発した偵察・連絡機。正式名称はフィーゼラーFi156シュトルヒ。丈夫な脚と各種高揚力装備を持ち、不整地でも50mもあれば離陸でき、20mで着陸できるという短距離離着陸性能を誇った。ドイツ軍が第二次世界大戦で戦線間の連絡や将校の移動用に使用。1943年9月12日には、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世により監禁されていたベニート・ムッソリーニを救出するのに使われたことから、世界史にその名を残す機体となった。

フィーゼラーFi156シュトルヒ偵察・連絡機(画像:英語版Wikipedia)
フィーゼラーFi156シュトルヒ偵察・連絡機(画像:英語版Wikipedia)

松浦:ここまでお話を聞いてきて思うに、今後の日本の航空産業を持ち上げていくには、四戸さんや藤野さんのような人材がたくさん現れることが重要なんじゃないでしょうか。

 そのためには、大企業と政府が組んで、大きなナショナルプロジェクトを立ち上げることよりも、もっと根本の部分――飛行機が好きな子ども、飛行機に興味を持った子どもに、体感的な部分から「航空機はこういうもので、こんなに楽しくて、でもこんな危険があって、それでもこれだけ有用なもので、こんな設計が良くて、これが悪い設計なんだよ」というようなことを教えていくことが重要、ということになりますね。

四戸:だから「学ぶのは十代真ん中あたりが旬だ」って言ったわけです(第2回、こちら)。模型飛行機の重要性も話したし、オリンポス立ち上げ当時に日本船舶振興会からお金を取って、グライダーを開発しようとした話もしましたよね(このあたりは第1回の、こちらを)。

松浦:そこは一貫しておられるんですね。

四戸:もう一度、ここにあるR-53の主翼を見て下さい。1930年代に確立した古い2本桁独立構造です。でも、この構造が古いということを実感するには、実際に模型飛行機でいいので、こういう構造の主翼を自分で作って飛ばす必要がある。そこまでやって、次にモノコック構造の翼を作ってみて、はじめて「ああ、モノコックはこれだから優れているのか」と実感できます。

実はリアルだった「飛べ! フェニックス」

四戸:米国の航空エンジニアは、ほぼ100%、模型飛行機を自作するところから航空の世界に足を踏み入れています。自分が丹精込めた模型飛行機が、他でもない自分の設計や組立のミスであっという間に墜落して壊れる、そんな痛い目を何度も見た人たちが、「俺もさ、実は結構やったんだよね」と言いながら、最先端の航空機を開発しているんです。

Y:あ、「飛べ! フェニックス」って映画がありましたよね【以下2段落ほどネタバレ注意、押井守監督のちょっとひねくれた解説記事はこちら】。

松浦:あったね。

Y:砂漠に墜落した輸送機の残骸を組み合わせて、新しい飛行機を作り、砂漠から脱出する話。あの映画で、脱出用の飛行機を設計するのは模型飛行機専門のエンジニアなんですが、今のお話からすると、日本人が思うほどリアリティのない話、でもないわけですね。

四戸:それどころか、あれこそがリアルだと思いますよ。そして、模型飛行機に夢中になるのは、いつだって子どもです。

 私は、見学に来る子どもたちに、親が風邪をひいて倒れた時に朝ご飯作れるかと聞くんです。ハムエッグ作れるかと聞くんです。そして実際にやってごらん、と言う。そうすると、まあ大体はぐしゃっとなって焦がして、うまくできるもんじゃないですよね。でも、子どもは自分でやってみないと、まさか自分が朝ご飯作れないとは思わないんですよ。

四戸:でもね、ぐちゃぐちゃに焦がすということを1回やると、すぐに子どもは何をすればいいか理解します。そうなったらもう、その子はシェフへの入り口に立っているんです。

 子どもが15~16歳の時に情熱を抱いて、その情熱のままに突っ走ったら、20代、30代にはもう練達のエンジニアに成長します。だから、私たちは、まず子どもの心に火がともるような環境を作らなくちゃいけません。そして火が消えることなくどこまでも燃えていくことができるようなキャリアパスを作っていく必要があります。それは航空に限ったことではなくて、社会の若さを保つ、社会の活力を保つ方法だと思うんですよ。

Y:社会の活力。それは、「高齢化」で諦めるものじゃないんですね。

四戸:自分の子どもと一緒に模型飛行機を飛ばして、楽しかったり悔しかったりを味わわせるんです。早いうちにバイクのライディングを覚えさせるんです。サーキットにでもいって自動車を運転させるんです。ハンググライダーでもパラグライダーでもいいから、早いうちに飛行機の操縦をやらせて、世界にはこんな楽しいものがあるぞ、大人になったらもっともっと楽しいぞ、と教えるんです。そうやって心に火を付けるんです。

もういちど、プライマリーからはじめよう

松浦:ドイツはグライダーで高校生ぐらいから操縦経験を積めるようにしているということでしたよね。さっきも話題になったように、戦前の日本も中学校にグライダーを配って子どもを飛ばすということをしていますね(第2回参照、こちら)。実は、昭和一桁生まれの私の亡父は中学校にあったグライダーで操縦経験があって「あれは楽しかったなあ」と常々言っていました。「なーんだ、お前、空飛んだことないのか」とか威張るわけですよ。

 そういえば、児童文学者で「コロボックル」シリーズが有名な故・佐藤さとるさんも、昭和10年代の横須賀を舞台に、子ども達が力を合わせて人の乗るグライダーを作る「わんぱく天国」という作品を遺しています。自伝的要素があるそうなので、なにかそういうことが実際にあったのかもしれません。

 今こそ、むしろエンジニアリングの側から、「中学校や高校にグライダーを持たせて、子どもが飛ぶ」ということを考えたほうがいいのではないでしょうか。

四戸:実は今、作っているのが、まさにそういう目的のためのグライダーです(と製作現場に案内する)。グライダーの初級練習機、英語ではプライマリーといいます。「FOP-01」という機体です。

取材時はFOP-01の主翼が組み立てられていた
取材時はFOP-01の主翼が組み立てられていた

四戸:かつて文部省が中学校に配布していた「文部省1式」というプライマリーは、ヤマハとか今はスポーツ用品メーカーのミズノとかが作っていました。 この機体は、その復活を目指しています。

Y:これはどうやって飛ぶんですか。

四戸:バンジーといってゴムの索で引っ張るか、あるいはリッジソアリングという、海岸の砂丘のような定常的に向かい風が吹いてくる場所で飛ぶかですね。リッジソアリングは非常に楽なものですから、こちらがお勧めですね。九十九里あたりには非常によい海風が入ってくるところがありますし。砂浜を滑って降りて、速度が付くとすぐに浮いて飛べるんですよ。

 感覚としては、宮崎駿さんの「風の谷のナウシカ」のエンディングで、ナウシカが子供達に飛ぶことを教えるシーンがあるじゃないですか。あれを狙っています。「君、これに乗ったら飛べるんだよ」ってことをまず最初に子どもに教えたいんです。自転車に乗れる子どもだったら、あっという間に操縦を覚えますね。

松浦:速度はどれぐらい出るんですか。

四戸:時速30km後半から40kmぐらいです。パラグライダーよりも少し速い程度でしょうか。これは対気速度で、向かい風で飛びますから、対地速度はずっと低くなります。少しでも風が強いと、前に進まず浮かんでいるような感じになります。

Y:学校の備品を目指すとなるとお値段が気になるところなんですが。

四戸:自分達で組み立てるキット価格で100万円ぐらいを目指しています。構造的には中学生が十分組み立てることができるように留意して設計してあります。

Y:後ろに電動モーターが付いたりとかは……。

四戸:そういうバリエーションも作れますね。海外では、そうした機体も作られ、実際に飛んでいます。

松浦:免許的には問題ないんですか。

四戸:ないです。一切いりません。実機が組立中なので、海外のプライマリーがどんな風に飛んでいるか見て下さい(とYouTubeの画像を見せる)。

子どもたちに「気持ちいい!」を体験させよう

Y:最初はものすごく怖そうですけど、1度やったら絶対もう1回やりたくなりそうですね。

四戸:そうなんですよ。これが航空スポーツなんです。こういうことを中学生、高校生のころに絶対やった方がいいんです。

Y:確かにこれに乗ったら、子どもは案外簡単にいろいろなことができるんだなと思っちゃいそうですね。

四戸:どう思います? こういうのが当たり前のようにできるようになったら。

Y:素敵ですね。

四戸:理屈抜きに、「よし、飛行機をやろう」と思うはずですよね。

Y:でしょうね。「俺、スキーをやろうかな」というのとあんまり変わらない。初めてバイクに乗った時のこと思い出しちゃいました。

四戸:そうでしょうね。初めてバイクに乗って、どう感じたのか思い出せますか。

Y:「こんなに気持ちいい乗り物があったのか、でも怖い」みたいな感じでした(笑)。

四戸:で、またすぐに乗りたくなるじゃないですか。それが重要なんですよ。

(次回に続く)

■変更履歴
記事掲載当初、「ホンダジェットは…プロジェクト開始から30年以上の時間をかけてじっくりと取り組みました」としていました。これは1986年からのホンダの飛行機研究を指しての発言でしたが、「ホンダジェット」のプロジェクトは1997年以降となります。誤解を招く表現でしたので訂正します。また、ホンダによれば藤野氏が開発に参加した自動車は「プレリュード」ではないとのことでした。訂正します。本文は修正済みです [2018/05/01 15:45]
当記事についてのホンダからの申し入れを検討し、筆者とも話し合った結果、当初の1~2ページの中で、記憶に基づいての記述で事実関係が十分に確認できなかった箇所である「実は私、就職の時にちょっとしたいたずらを仕掛けたことがあります。」から「間の30年で何があったかは明白です」までを削除いたします。 [2018/05/19 15:00]
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