半匿名でぼくが決めているルール

大変に不本意なことではあるが、先日、自分の名前と立場を明かしてネットで発言をするハメに陥った。

 

もちろん、これまでもメディアの取材として、自分の名前でネットに記事が掲載されることは何度もあったわけだが、メディアの取材で名前が出るのはもちろん公人として、また、仕事として出るわけだから、名前が出るのはむしろ当然だ。

しかしながら、ぼくがネットで自分の意見を発信する場合は、私人として個人の考えを自由に表明しているだけであって、会社の立場と紐付けられて解釈されるのは望まない。匿名というスタンスでの発言にこだわってきた理由のひとつでもある。

 

残念ながら、2018年のネットにおいて公的な立場と私的な立場を切り分けて発言するスタンスは、もはや維持することが難しい。ぼくの意見にケチをつけたいひとが、公的な立場と紐付けて解釈するということで攻撃するケースが増えてきたからだ。正直、ぼくにマイナスの印象操作を行いたいひとがあまりにぼくのアカウントの正体を宣伝してくれるので、もはや、ぼくのハンドル名は匿名としての意味を半ば失っている状態だ。

 

事実上ほぼバレている匿名をつかって意見を発信することを非難するひとたちは、ぼくのことを無責任であり、卑怯であるといいたいらしい。しかし、現実問題として、ぼくは発言に責任は取らされている。また、卑怯という非難が、損得勘定のことであるとするなら、ぼくは半匿名のスタンスを維持することで、まったく得をしていない。むしろ損をしている。意地で続けているだけだ。

 

今後もこのスタンスを自分の主義として貫いていく所存だが、ぼくに対する批判にも正当性は一部あることは認めざるをえない。匿名ではなく、自分の立場をはっきりさせたうえで発言すべきテーマというのはたしかに存在しているだろう。そういうことについては、別途、実名のブログを立ち上げることにした。

 

しかし、あくまでも実名での発言は例外とすることにして、ネットでは今後も匿名での情報発信を基本としたいと思っている。

 

この機会に、ぼくがどのようなルールで匿名アカウントを運用しているかを書き記したい。ついでになぜ、ぼくがいつも不毛な喧嘩ばかりネットで続けているかも書く。本来はこういう自分の中のポリシーというものは、自分の中で決めたルールであって、そのとおりに実行することが大事であって、禁煙宣言じゃあるまいし、まわりにわざわざ宣伝するものではない、というのが、ぼくの価値観だが、自分のスタンスを貫くには、そうもいってられないと判断した。

 

ネットでの発言における自主的なルールについて

 

・ 発言をおこなう場合のプラットフォームとしては他社のサービスを選択する。個人的な興味、なにかの実験をしたい場合など、特別の理由がない限り、自社のサービスを使った情報発信はおこなわない。

・ 個人アカウントでは会社や仕事の宣伝はおこなわない。ただし、個人的に本当に面白いと思っているものを紹介することは、仕事に関わりがあることであってもできるだけ自粛しない。(自粛することもある)

・ 本名で活動している場では、匿名アカウントの名前や、URLなどについては一切発言しないし、宣伝をしない。

・ 会社のサービスからアカウントへのリンク、宣伝はおこなわない。

・ 会社あるいは個人に対してメディアから、本人かどうかの問い合わせがあった場合は、「回答できない」または「個人でおこなっていることについては分からない」と回答する。

・ 会社のサービスのユーザーからの質問や苦情については回答しない。もしくは会社に連絡するようにアドバイスをおこなう。

・ ぼくの本名を名指ししての意見表明をせまるような人についても同様。

・ 自分が匿名で発言する以上、自分と面識があるひとについてはできるだけ発言しない。もし発言する場合には、自分と相手との個人的なエピソードを利用するような書き方はしない。あくまで一般論。せいぜい業界内での一般論として許容できそうな範囲内にとどめる。あるいは本人だとは分からないようにエピソードだけ書く。

・ 自分の知人と議論の場合は除いて、私的な会話はおこなわない。

・ ネットにおいては、社交辞令的な発言はおこなわない。うそは書かない。常に自分が本当に思っていることだけを書く。相手をバカ呼ばわりすることは本当にそう思っていない限り、おこなわない。(他にも条件があるが後述)

・ ネットの批判に対して、自分が間違っていると思っていないのに、表面だけ、頭を下げてみせる、いわゆる「大人の対応」は絶対にやらない。

・ ネットでクソリプ、粘着などつけてくるひとたちが現れた場合に、できるだけ無視はしないで返事をする。

・ 相手が失礼なクソリプをつけてくる相手の場合は、相手が使用しているのとできるだけ同じ手法を使って罵倒する。

・ twitterで議論する場合は、フォロワーに見せる価値があると思うもの以外は、原則として相手への返信を使う。

・ 同様に価値があると判断するものを例外として、自分のツイートのリツイートや、自分に賛同する意見のリツイートは行わない。

・ 要するに議論の際に、自分のフォロワーの多さを利用しない、自分の賛同者をけしかけような行為はおこわない、ということ。

・ フォロワー数が一定数以上増えた場合はアカウントを消す。

 

以上が、ぼくが9年前にいまのハンドル名でネットで書き込みをはじめたときから、多少の修正はあるものの、ぼくが自分に課しているルールだ。

 

現実問題として、上記のことを常に守れているかというと、妥協することもしばしばだし、判断を間違えることも多々ある。が、概ねは守っているつもりだ。

 

日本のネットでなぜ罵詈雑言が多いのか。

ぼくはネットの素晴らしいところはこれまで発言の機会のなかった

人間に発言できる場を与えたところだと思う。

いつの時代にも社会に馴染めない人間はいる。他人とコミュニケーションが苦手なひとがいる。

うまく喋る自信もないから、どもったり、無口になるひとがいる。

何十年も前の日本には、まったく会話ができないひとが結構いたそうだ。そういうひとをみかけたら、怯えるので目を合わさないようにしてくださいというような注意書きが街中に貼ってあったという。

さらに昔の日本ではそういう社会的不適合者は、世間様には見せていけないものとして、家の外には出さなかった、という。強制的なひきこもりであり、座敷童の起源だ。

いまの時代のひきこもりや社会的不適合者は、昔よりはずいぶんと幸せで、コミュニケーションがとれないといっても、まったく会話ができないまでの人間はそうそういないように思える。

ひとつはそういうひとたちが趣味の世界が居場所を見つけられる世の中になったこと。オタク万歳だ。

もうひとつは、そういうひとたちでもネットでは世の中と繋がることができるようになったこと。

社会から疎外されて居場所をなくしていて、ネットに救われた人は大勢いると思う。残念ながら秋葉原通り魔事件の加藤君のように救えなかったひとも多かっただろうが、でも、救われたひとはもっともっと大勢いたはずだ。

 

日本のネットで罵詈雑言が多いのは当然だ。

社会から疎外され、発言することを許されなかったひとたちが、やっと自分の考えを聞いて貰える場所を手に入れたのだ。おとぎ話なら、口々に感謝の言葉でも述べるところだろうが、実際に飛び出したのは、いままでの人生で積もり積もった呪詛の言葉だったというだけの話だ。それぐらい当然のことだろう。

 

ぼくたちは、いま彼らの呪詛の言葉を嫌悪して排除しようとしている。それは本当に正しいのか。自分たちが排除して見捨てたひとたちの言葉なのだ。

 

ぼくはリアルとネットは地続きとかいっているやつのことが本当に頭にきてしょうがない。リアルで居場所をなくしてネットに居場所をつくった人間に対して、ネットでもリアルの人間関係を持ち込もうというのか?

 

リアルはリアル、ネットはネットでいいじゃないか。なんなら、ネットとリアルは地続き、とかいうやつらの島をつくってもらって、そこはそこで勝手にやってもらってもいい。ただ、ネット全体にリアルの価値観を持ち込む必要がどこにある?

 

以上は、ぼくが信じている妄想の話だ。どれぐらい想像が真実なのかは分からない。ただ、ぼくが想像していることがあたっている世界は、それなりの広さで存在するとは思っている。

 

じゃあ、どうすればいいのか。

 

子どもの頃に読んだ瀬島龍三さんの本に印象的なことが書いてあった。人間には本分というものがあって、本分を持たないとだめだ。そのひとにとっての本分はなにかというと、それは教えられるものではなく自分で見つけなければならない。そのようなことが書いてあって、ぶっちゃけ、よく理解できなかった。

ようするに自分の得意なことを見つけろ、そして世の中の役に立てという、よくある話なのかとも思うがどうやらそれとも違うらしい。

本の作者である瀬島龍三さん自身の本分とはなにかというと、太平洋戦争で亡くなったひとたちの遺骨を拾って慰霊をすることなのだという。

さらにさっぱり分からない。そんなことになんの意味があるのか。瀬島さんは太平洋戦争では参謀本部に所属する若手将校のひとりであった。おそらくは自分にも責任があると感じていたのだろう。ただ、それで本分が遺骨拾いとは、ただの自己満足ではないか。子どもの頃のぼくはそう思っていた。

 

今になって考えると、本分とは、本人にとって、人生の経験の中から生まれた、どうしても自分がそうせずにはいられないという妄想のようなものではないかと思う。

 

はたして、ぼくにとっての本分とはなんだろうか。人生の中で何度も考えたテーマだ。これについては、本来はみだりに他人に話すたぐいのものではないとは思うのだが、結構前に出した結論がある。それこそ9年前にブログをはじめて、そしていったん止めた。そのときに出した結論だ。

 

ぼくの本分とは、若いときのぼくを救ってくれたネットを守ることだ。そしてネットに居場所を得られたひとが居場所を奪われないようすることだ。そのための手段で、他のだれでもなく、ぼくにしかできないことをやる。そして必要だと思ったことは、当のネット民に嫌われてもやる、と決めた。

 

ぼくがネットの荒らしと、根気よく不毛に見える喧嘩を続けているのもその一環だ。ぼくは社会に対して、ネット民の口汚い呪いの言葉は自業自得なんだから、ちゃんと受け止めろ、とは心の中では思っているのだが、現実問題として、まあ、無理だろうなとも思っている。

ネット民が今後迫害されないためにも、ネットの誹謗中傷はなくさないとダメだ。

 

「どうやってネットの呪いを解き、将来的に起こるだろうネットへのリアルからの迫害を避けるか」

 

いちいち説明なんてしたくないが、ぼくがこれまでやってきた世間的には不合理に見えるだろう行動の多くの根本には、このテーマがある。