かわん、とはなにか。

ぼくについて言及されているブログをみつけた。


かわん(id:kawango)さんと、川上量生さんのこと


そういや、かわん、だった。


というわけで、かわんごの名前の由来を書いてみようと思う。
あまりにどうでもいい内容なので、最近、まったくつかってない古いはてなブログを使うことにする。


かわんごとは、もともと、かわんご、でもなく、カワンゴでもなく、kawangoだった。
つまり半角アルファベット7文字である。


idとか、パスワードとか、自己紹介とか、そういうのはどうでもいいと昔から思っていて、いちいち考える時間がもったいなかった。


とはいえ、サービスごとに適当な違う名前をつけていると管理がしにくいので統一はしたい。
ネット人口の少ないパソコン通信時代でも、kawakamiだと既に取られていることが多かった。


なのでぼくがよく使っていたidはkawakawaだった。でも、インターネット時代に入り、それもだれかが使っていて確保できなくなった。一時期、kawakawakawaを使っていたがサービスによっては長すぎて文字制限にひっかかる。kawakawaとkawakawakawaのサービスが混在すると自分でもよく分からなくなる。いまとなってはkawakawakawaですら取られていることも多い。


そこで使い始めたのがkawangoだ。これはほぼかぶらなかった。ひらがなにすると、かわんご、だが、英字のidとひらがなのハンドル名が要求されるケースでは、ひらがなのほうは、かわん、をつかっていた。かわんごとか、自分の会社名を名前に使うのはちょっと気持ち悪いし、かわん、だけで十分に識別子としてのユニーク性は担保されるからだ。


オンラインゲームだとidとハンドル名がほぼイコールになっていることが多い。
ある日、MASAKIというガラの悪い後輩に、「ちょっとかわんごさんよお」といってチャットで絡まれた。
ああ、かわんご、という名前はウケるんだ、と思った。
それ以来、かわんご、という名前を使っている。


いまだと、かわんごというハンドル名自体が、有名になっていて、バレバレの名前だといわれたりもするが、10年前は、会社名もネットの一部のひとしから知らなかったし、ニコニコ動画といえばひろゆきだったし、戀塚君だったし、そのあと夏野さんが加わった。ぼくの存在なんてまったく知られてなかった。かわんご、という名前は、社内やゲーム友達に向けた内輪受けの冗談だった。


かわんごという名前はどうでもいいが、いまとなっては大事でもある。なぜなら、これはもはや自分にとってのキャラだからだ。


ぼくがプロフィールを書かない、書くことにまったく興味が無いのは、自己顕示欲がないからではなくて、他人に関心がもたれることを恐れているからだと思う。


子どもの頃から苦手だったのは世間話だ。ぼくは意味のある話しかできない。どうでもいい会話やノリの会話ができない。これが、コンプレックスで、とにかく自分に話がふられるのが怖かった。


斉藤環さんの本とかを読んで、いまにして考えると、ぼくは学校時代にクラスの中でキャラを手に入れられなかったということだろう。どう振る舞えばいいか分からなかった。ぼくが演じられるキャラは少なかったし、そのキャラは、もうクラスのだれかが演じていて、空いていなかった。


会社をつくってしばらくたつと、会社というコミュニティの中では「社長」というキャラが、まるでぼくのために用意されたものであるかのように空いていることに気づいた。


「給料下げるぞ」とかなんとかいってれば、みんなウケてくれる。「社長」というキャラはとにかく偉そうにしてれば、みんな笑ってくれるという、すごいチートスキルがついていてちょろい。ぼくは人生ではじめて確固たるキャラを手に入れた。


ただし、「社長」というキャラは深いコミュニケーションをするには向いていない。だれも本音を打ち明けてくれたりはしないし、逆に「社長」が本音とかを打ち明けはじめたら、みんなどん引きだろう。


そんななかで、ネットの中において、かわんごとは、はじめて、ぼくが本音をいっても、他人に聞いてもらえるキャラだった。


自己顕示欲の源泉はなにかというと、本当の自分を知ってもらいたい、そして承認してもらい、ということじゃないかと思う。


ぼくにとってキャラとは演じること自体が目的ではなく、本音の自分を知ってもらうための手段だ、という思いが根本にある。


キャラを演じるのは仕事だ。仕事はきちんとやるべきだろうと思うから、ぼくはそれなりにやっている。


かわんごというキャラがなんなのかというと、ネットでしかいえない本音だったり本当のことというのを、打ち明ける、放言するということだろうと思っている。みんなが知らないだろうこと、もしくはみんな思っていてもいえないことを書く、それが仕事だと思っている。それはぼくがやりたいことでもある。


でも、まあ、ぼくがかわんごというキャラに救われたのだとしたら、そういうことではなくて、ネットの中に居場所を確保できたということだろう。高校とは勉強が本分なのかもしれないが、実際に高校生が求めていることは学校生活を送ること自体だ。


ネットに生きるということはどういうことか。たぶん、すごく理解されにくいと思うし、たぶん、ネットに生きていないひとには理解は無理だと思う。


昨日、アップしたブログは高木浩光氏への批判だ。これは意味のあるものだと思っている。必要だけど、だれもちゃんとやってこなかった。でも、ぼくがあの記事を書きたいと痛切に思って短時間で書き上げさせた原動力となったのは、「私は勇気をもってトカゲのしっぽを切ろうと思う」というフレーズを思いついたことだ。これはウケると思った。事実、わりと予想通りの反応は得られたようだ。多くのひとが楽しんでくれたようでうれしい。


ただ、shi3z君もアンチが多いので、彼らのshi3zディスに利用されるのも癪なので彼のために弁明しておくと、彼も3年前の議論で、それほど本質的には、おかしなことはいっていない。ただ、いろいろ間違えたことをいったので足下をすくわれただけだ。
ちなみに、当時から、本人にも、てめえのせえで負けたんだ、と文句をいっている。


ディープラーニングの大成功をきっかけとする今回のAIブームで次第に分かってきたことがある。AIが人間を超えるかというテーマが再燃したわけだが、AIが人間並みの知性を身につけることができるかという命題で暗黙の前提とされているほどの知性をじつは人間自身がもっていないんじゃないかという疑惑だ。


おそらく人間は自分たちが想像する以上に頭が悪い。人間が知性をもっているという前提がそもそも妄想に近い。これはどんなに頭がいいと思われている人間でも同じだと思う。むろん、ぼくも例外ではない。


クソみたいな知性で信じ込んだ絶対の真実なるものを旗印にして殴り合っても馬鹿らしいだけだ。


イデオロギーとは知性の無い人間でも、お経のように唱えると、知性があるかのように振る舞えるというライフハックだ。


本当の知性なんてものがあるのだとすればあらゆるイデオロギーからは自由なものであるべきだろう。
そしてそれはネットにある。そしてそれは笑いとともにある。


ネットというのは、だれが考えたのか分からない本当にみもふたもないセンスある表現が多くて大好きだ。「まなざし村」とか知ったときは大笑いした。「ポリコレ棒で殴る」という表現も実に冷静な観察眼からしか生まれ得ない素敵な比喩ではないか。


イデオロギーやタブーにしばられない真に客観的な評論がネットにはあふれている。全力2階立てとかは、そういうネットらしさを体現したメディアだろう。


そのネットで他人の自由な発言を邪魔しようというひとたちがどんどん巾を利かせはじめている。
それを時代の流れだとかいっていながら、中国の金盾に代表される言論統制は批判する。どんな矛盾した敗北主義だと思う。安全な立場から遠い現実は批判できても、目の前の現実にはあっさり妥協する。


世の中の流れということであれば、必ず歴史はくり返すことを信じるべきだろう。
ネットがはじまったときの興奮はもう戻ってこないかも知れないが、若い世代にとっては別の話だ。そして、ネットがはじまったときほどではなかったとしても、必ず揺り戻しは来るはずだ。


ぼくはネットの知性を信じている。