麻生太郎財務大臣が不可解な発言を繰り返している。
まず、連休中の5月4日に、訪問先のフィリピンで、同行した記者団に対して
「セクハラ罪という罪はない」
という旨の発言をしている。
当然のことながら、このコメントはすぐさま多方面からの批判を招いた。
で、それらの抗議や反発の動きに対応して、なんらかの釈明があるものと思いきや、連休明けの8日、財務相は、フィリピンでの発言について問われると、
「セクハラ罪という罪はない」
と、再び同様の発言を繰り返し、ついでのことに
「(セクハラは)親告罪であり、傷害罪などと違って訴えられない限りは罪にならない」
との説明を付け加えた。
いったい何を考えているのだろうか。
「セクハラ罪」という罪名が、六法全書に書いていないというのであれば、その点は大臣のおっしゃるとおりだ。
が、「セクハラ」と総称される行為が、結果として強制わいせつ罪のような罪名で裁かれていることも皆無ではないし、強要罪、名誉毀損罪で訴えられたり、民事で損害賠償を求められるケースもある。
ということは、セクハラは罪として訴えられ、裁かれることがあり得ると考えるのが普通だ。
たとえばの話「鼻っ柱を思い切りぶん殴り罪」という罪名が存在していない一方で、他人の鼻を殴る行為が「傷害罪」なり「暴行罪」でごく当たり前に裁かれているのと同じことではないか。
不思議なのは、大臣が「罪はない」と断じている一方で、「親告罪であり傷害罪などと違って云々」という付帯状況の説明を加えている点だ。
仮にセクハラが親告罪で、訴えられなければ罪にならないのだとしても、訴えられれば罪になるのであれば、その罪は「ある」ことになる。逆に、麻生さんが前言した通りに、セクハラ罪という罪がないのであれば、セクハラは親告罪であることさえできないことになる。
いったい大臣のアタマの中では、セクハラは、どのような「罪」として認識されているのだろう。
ついでに申せば、強制わいせつの罪、および強姦罪、準強姦罪が、昨年6月の法改正で非親告罪化されている。ということは、仮に、麻生さんが、セクハラを強制わいせつ関連の犯罪として認識しているのだとしても、その罪について事実誤認をしているわけだ。
さらに私が不思議に思うのは、これほどツッコミどころだらけの発言について、大臣を取り囲んでいる記者クラブの記者諸君が誰一人として突っ込んでいないことだ。
これは返す返すも不可思議な状況だ。
同じ8日に、麻生さんは、財務省で発生した文書改竄問題について<
「どの組織だってありうる。個人の問題だ」
などと発言し、さらに
「個人の資質によるところが大きかった。組織全体でやっている感じはない」
とも述べている(こちら、こちら)。
これまた驚くべき発言だ。
形式論理上の話をするなら、どんな組織にだってあらゆることが起こり得る。この点は間違いない。真鍮の鼻輪を装着した官僚が全裸で勤務しているケースだって可能性としては皆無とはいえないだろう。
が、だからといって、すべての不祥事を個人の資質の問題に還元して良いという理屈にはならない。
というよりも、セクハラのような事案を個人の資質に帰して放置する組織があるのだとしたら、その組織には責任の回路が存在しないことになる。
警察官による発砲事件が、どの警察署でも起こり得る問題であるからといって、警察官による発砲を個人の資質の問題として不問に付すことは許されない。
というよりも、問題は、特定の事件が特定の組織内で起こり得るのかどうかではなくて、起こり得るかもしれないその事例について、責任ある立場の人間がどのような態度で臨むのかというところにある。
つまり、発砲事件を起こした警察官が所属していた当該の警察の署長なり警察庁の長官なりが、
「発砲事件はどこの警察署でもあり得る。そういった意味では私どもとしては組織としてどうのこうのという意識で思っているわけではない。個人の資質とか、そういったものによるところが大きかったのではないかなと思っています」
みたいな寝言を言って無事で済むはずがないことを見ても分かる通り、これは、個人の資質とか組織の問題とかいった論点を持ち出すような話ではなくて、組織のメンバーがやらかした不祥事について誰が責任を取るべきであるのかという極めてシンプルな話題なのである。
で、その話題について、大臣は
「オレは責任を取らない」
と明言した、と、私は、そういうふうに受け止めている。
なるほど。
ここまでのことを明言した以上、大臣は自分の発した言葉の責任を取らなければならないはずだ。
だがしかし、ここまでのところを書いてきて、私は実のところ徒労感に似た感慨に襲われている。
というのも、私がここで書いた理屈は、あまりにも当たり前で、あまりにも言い尽くされていて、どうにも凡庸で、それどころか、もしかすると退屈だったかもしれないと自覚しているからだ。
麻生さんの度重なる暴言がなんとなく看過されている背景には、実は、このことがある。
このこととはつまり、麻生さんの暴言を指摘する議論が「退屈」だということだ。
もう少し詳しく説明すれば、政治向きの発言や議論を「退屈」と見なす態度こそが「クール」な現代人の証であるとするマナーが、世の中で一般化しているということだ。
麻生さんが就任以来繰り返している不遜な発言は、あまりにも馬鹿げているがゆえに、一種の「背景」になってしまっている。
麻生さんのような「キャラ」は、一定のタイミングで暴言を吐くのが当たり前な日常で、心理学で言うところの「図」と「地」で言えば、「地」になっているということだ。
であるからして、多くの人々は、麻生さんの暴言に「馴れ」ている。
また同時に、彼らは麻生さんの暴言を問題視する人々の言いざまに「飽き」てもいる。
もちろん、麻生さんの暴言に喝采を送っている面々がいる一方で、彼の発言のいちいちに突っかかっている批判派もいる。
が、多数派は、匙を投げている。あるいは、無関心を決め込んでいる。
いずれにせよ、大真面目に怒っているのは少数派に過ぎない。
しかも、多数派に属する人々は、大臣の発言のいちいちに反応して、それらをことあげて問題視している口うるさい人々の態度を、「みっともない」「子供っぽい」「青くさい」「原理主義的な」「お花畑の」「優等生っぽい」「理想化肌の」マナーであると見なして、バカにしている。
これは、なかなか厄介な状況だ。
というのも、なにごとにつけて
「たいしたことじゃないさ」
と肩をすくめておくのがクールな態度だと思いこんでいる人たちの耳に届くのは、もっぱら温度の低い言葉だけで、いきり立っていたり強く主張していたり、説得しようと勢い込んでいたりする言葉は、
「どうしてそんなに必死なんですか(笑)」
ってなぐあいに、スルーされてしまうからだ。
この態度には覚えがある。
というのも、私の世代の者(1956年前後の数年間に生まれた人間)は、高校生だった頃から、「シラケ世代」「三無主義世代」(無気力、無関心、無責任の意。後に、無感動が加えられて四無主義世代と呼ばれたこともある)と呼び習わされた人間たちだったからだ。
われわれがシラケた若者として振る舞うようになったのは、基本的には、ひとつ上の団塊の世代の若者たちが、やたらと活発で熱血で助平で傍若無人だったことへの反動によるものだとは思うのだが、このあたりのあれこれについて、この原稿の中で、特別に深く分析しようとは思っていない。ともあれ、一世代上の団塊の人たちのやかましい挑戦と失敗の様相を眺めながら育った人数の少ない統計グループであるわれわれは、万事につけて温度の低い人たちだったということで、ここでは、私が、昨今のネット上でデフォルト設定になっている冷笑とシニシズムは、そもそも自分たちの持ち前だったという自覚を抱いているということを申し述べておくにとどめる。
麻生さんの一連の発言は、ある意味で、政治を冷笑している人たちの気分にフィットしている。
といっても、彼らが、必ずしも支持しているというのではない。
彼らとしては、バカにしつつ面白がっているくらいな力加減で、むしろ、麻生発言にいちいち腹を立てているおっさんたちを笑うことの方に重心を置いているのだと思う。
ともあれ、彼らは麻生さんを面白がっている。
なぜなら、あのバカバカしさと底の浅さは、自分たちがそれをマトモに相手にしない理由としてまさにピッタリでもあれば、政治に必死なバカなおっさんたちをあぶり出すための絶好のトラップだからだ。
私のツイッターアカウントにも、そういう人たちからのリプライやメンションが届けられる。
4月の下旬に私は、ツイッター上に
《信じられない不適切発言を撒き散らしている麻生さんのクビがいまだに胴体の上に乗っかっていることが信じられない。一連の暴言は、「死の町発言」や「産む機械発言」よりずっと悪質だと思うのだが。》
という言葉を書きこんだ。
このツイートは、たいして注目されることもなくなんとなくタイムラインの底に沈んでいたのだが、1週間後に、和田政宗という自民党の参議院議員が、私のツイートをリツイートしたうえで、
というツイートを投稿すると、その瞬間から、私の元ツイートには400件以上の罵倒のリプライが押し寄せるに至った。
ひとつひとつは、他愛のないツッコミなのだが、私が強い印象を受けたのは、ほとんどのアカウントが、私の元ツイートの中にある、
「麻生さんのクビがいまだに胴体の上に乗っかっていることが信じられない。」
という表現を、そのものズバリの殺人教唆、殺害予告ないしはテロ誘発の発言と見なしていることだった。
もっとも、「クビが胴体の上に乗っかっているのが信じられない」というフレーズを「いまだに辞任せずにいるのが納得できない」という意味の比喩であることを理解せず、文字通りの殺害予告と読み取ってしまう読解力の持ち主が400人以上押し寄せたというふうには、さすがに私も思っていない。
今回の事態は、むしろ読解をひとつのゲームと見なす人々が大量に現れたと見なすべきところなのだろうと考えている。
ツイッターはそういう場所だ。
たくさんの人間が、偏頗な読解や曲芸的な解釈を競っている。
おそらく、彼らの見方からすれば、麻生さんの発言が物議を醸していること自体、「マスゴミ」や「パヨク」の連中が、偏った読解をもとに火をつけただけの、ある種の「言い掛かり」ということになるのだろう。だからこそ、自分たちも、気に食わない人間の発言は、可能な限り悪意ある読み方で曲解して攻撃するという話になるわけだ。
面白いのは、その彼らのリプの多くが、文末に「w」や「(笑)」といった記号を付加する形式で書かれていることだ。
この記号の意味するところは、対話相手への嘲笑ないしは冷笑である以上に、語り手である自分自身の「余裕」のアピールだったりする。つまり彼らは、
「オレは余裕綽々だぜ」
「っていうか、あんたに対してオレは半笑いの片手間の姿勢で対応してるわけなんでよろしくな」
ということを強調せずにはいられない人々だったということだ。そして、彼らがそんなふうにやたらと笑いまくっている理由は、彼らが、主張や言説の内容が間違っていることよりも、「必死」だったり「顔真っ赤」だったりすることがなによりもみっともないとされる世界の住人だからなのだ。
麻生さんのものの言い方は、その意味でも、彼らの感覚にフィットしている。
麻生さんは、どんな場合でも、自分の声高に言い分を言い募るようなことはしない。
たいていの場合、相手を揶揄するような顔つきで、半疑問形の語尾で発言する。
これをキメられると、大真面目に質問している政治部の記者がバカに見える。
あるいは、冷笑派の視聴者の目には、真面目で機転のきかない政治記者が、軽妙洒脱で当意即妙な麻生さんに良いように弄ばれているみたいに見えているのかもしれない。
とすれば、記者クラブのメンバーたちは、
「えーと、確認のためにおうかがいするんですが、ただいまの大臣のご発言は、この度の福田次官によるセクハラ事案に対して、大臣ご自身が、監督官庁のトップとして一切の責任を感じていないというふうに受け止めて差し支えないわけですよね」
と、できればニヤニヤ笑いながら問い返すべきところなのではなかろうか。
あるいは、単に爆笑しておくテもある。
「はははははは」
「何がおかしい!」
「いえ、なんでもありません。ふふふふ」
結論を述べる。
私個人は、麻生さんに辞任を求める気持ちは持っていない。
むしろ、現政権が省内で大掛かりな文書改竄があったにもかかわらずその大臣に辞任を求めない政権であることを内外に告知する意味で、最後まで職にとどまってほしいと思っている。健闘を祈る。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
いよいよ本日開催です。いったい、どんな話になるんだろう…。
小田嶋隆×葉石かおり×浅部伸一
「飲むべきか、飲まざるべきか、それが問題」
『上を向いてアルコール』(ミシマ社)
『酒好き医師が教える最高の飲み方』(日経BP社)コラボ鼎談
出版局のT内です。酒飲みなら誰もが経験する「ああ、飲みすぎちゃったな……どうして途中でやめられなかったんだ……」という後悔。特にひどい二日酔いのときは「ひょっとして、アル中になってしまうんじゃ…」と心配になることもあるでしょう。
アルコールを嗜む人にとって、他人事ではない「アル中=アルコール依存症」。でも、怖がりすぎる必要はありません。まず、敵(アル中)を知りましょう。アル中から抜け出し、酒を断って20年の人気コラムニスト、『上を向いてアルコール』を上梓した小田嶋隆さん。そして、『酒好き医師が教える最高の飲み方』の著者である、酒ジャーナリストの葉石かおりさんと、監修者で肝臓専門医の浅部伸一さんが語り合います。
なぜ、人はアル中になるのか?
アル中になるとどうなるのか?
どんな治療が待っているのか?
どんな人が依存症から抜け出せるのか?
アル中にならずに、健康的に飲むためにはどうすればいいのか?
壮絶! なのに抱腹絶倒の『上を向いてアルコール』、医師なのに酒好きな人たちに健康的な飲み方とウンチクを聞いた『酒好き医師が教える最高の飲み方』の著者たちが語る、面白くてためになるトークをお楽しみください!
時間 2018/05/11 Fri 20:00~22:00 (19:30開場)
場所 本屋B&B
東京都世田谷区北沢2-5-2 ビッグベンB1F
入場料
■前売1,500yen +(1 drink order 当日現金払い)
■当日店頭2,000yen + 1 drink order
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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。