ネット右翼は自民党ではなく、結局「この組織」を支持していた

ネット右翼十五年史(5)

単なる「自民党支持」ではない

ネット右翼は自民党支持者とイコールである、というのは基本的に間違った解釈である。

簡潔に言えば、2002年から勃興したネット右翼は、自民党支持者では無く自民党内の派閥――清和会「反共タカ派」の主張をトレースする保守系言論人に寄生する人々、と考えなければならない。この構造を示さなければ、2014年都知事選挙での非自民推薦・田母神俊雄への支持や、非自民野党である次世代の党への熱狂は説明できないからだ。

確かに自民党本体には、J-NSC(自民党ネットサポーターズクラブ)がある。J-NSCは麻生太郎政権(当時)が鳩山由紀夫率いる民主党に敗れ、下野した選挙(2009年8月総選挙)後の2010年5月、ネット世論対策組織として設立された。

当時の自民党は、電撃的な鳩山民主党と麻生自民党の政権交代を衝撃をもって受け止めた。

そこから、政権奪還のためには若年層(但しこの場合の若年層とは、当時のいわゆる「アラフォー」世代を指す:過去連載記事参照)を主体としたネット世論への訴求と、ネット上に定住する「ネット右翼」を一種の集票装置として利用することが必要だ、という構想が生まれた。J-NSCはその具現化である(J-NSCの発展と衰退については、稿を改めて論じたい)。

 

非主流派だった清和会

ネット右翼の政治的・思想的背景を分析する上で、本稿では戦後の自民党党内派閥の潮流、とりわけ安倍晋三の出身派閥でもある「清和会(現在の細田派)」の歴史を紐解いてみたい。

高度成長期末期の自民党政治は、戦後最長の7年8ヶ月に及ぶ佐藤栄作内閣を事実上引き継いだ、1972年の田中角栄政権発足(~74年)によって大きく様変わりした。

角栄は、そのカリスマ的人間性を原動力として、中央から地方に金をばらまく露骨な政治家の利益誘導と見返りに、中選挙区における職能集団から集票するシステム(後にこれは「金権腐敗政治」と言われるようになる)を確立した。

一方で、国会に於いては1970年代からの自民・社会党の議席の伯仲(伯仲国会)による、いわゆる「国対政治」(与野党の国会対策委員長同士の妥協)が常道化した。

また、中央から地方に利益を誘導する見返りとして、地方の強固な職能集団が中選挙区で票を提供するというシステムは、この時代からすでに進行していた、地方から中央(東京・大阪・名古屋の三大都市圏)への人口流出で弱体化しつつあった職能集団(農林水産、土建業、郵便など)のパワーを温存させ、半永続化させる事にも繋がった。筆者は、これが現在に続く地方衰退の遠因になった、とみる。

こうして、中選挙区制度の下で田中角栄から始まった「金権腐敗政治」は、衰微しつつあった地方を補助金漬けにし延命する見返りに、田中派に対する地方組織の盤石な支援を実現したのである(その最たるものが、角栄の地元新潟の「越山会」であった)。

この「金権腐敗政治」は、1976年のロッキード疑獄による田中角栄の逮捕後も、基本的には永続する事となった。

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1970年代の自民党政治は、「三角大福」(三木・田中・大平・福田)の四人の内閣が担ったが、特にこの時代、田中派と福田派が中選挙区において鋭い対立をみせた。いわゆる「角福戦争」とよばれる派閥抗争の勃発である。

結論から言えば、「角福戦争」は概ね田中派の勝利に終わり、福田派は党内少数派の立場に常に立たされていた。国民から批難され、逮捕までされたにもかかわらず、田中角栄は地元越山会の支持を受けて当選し続けた。田中は無所属になっても自民党に対し隠然たる影響力を行使し続け、「闇将軍」とあだ名された。

1980年代に入り、中曽根内閣が発足しても「田中曽根内閣」と揶揄されるほど角栄の影響力は絶大であった。中曽根自身は若年の頃から憲法改正を祈念するタカ派だったが、内閣発足にあたっては角栄の強力なバックアップを受け、官房長官には全期間を通じて田中派の重鎮である後藤田正晴を起用した。

1985年になって竹下登が竹下派(平成研究会=平成研)を発足すると、自民党の主流はしだいに竹下派に移った。折しも、同年に田中角栄が脳梗塞で倒れ、事実上の政界引退を余儀なくされたのもあった。

中曽根裁定により1987年に竹下内閣が発足すると、「金権腐敗」の基本構造は温存されるどころか爛熟を迎えた。リクルート疑獄、佐川疑獄と竹下・金丸信の言葉を挙げれば、これ以上の説明は無用であろう。

田中・竹下派が自民党政治の主流を押さえる中で、一貫し非主流派に立たされたのが、のちに「清和会」と名を変えることとなる福田派であった。

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