教養のない実務家が跋扈する時代を終わらせるべき時

 

 

暴力志向は日本人の国民性?

 

前回、日大アメフト事件に言及するにあたり、これが主として今だに残存する『昭和的価値/意識』に起因する問題であることを指摘しておいた。ここでは、昭和といっても、戦後の高度成長期以降の後期~末期の昭和を想定していた。では、その『昭和的価値/意識』は一過性で、ある時期に特徴的なものなのなのかと言えば、そうではない。少なくとも、先の戦争(太平洋戦争/日中戦争)における帝國陸海軍には、いたるところに同様の類型を見つけることができる。そのあたりの事情は、経営学者の野中郁次郎氏らの共著である『失敗の本質―日本軍の組織論的研究*1 や評論家の山本七平氏の一連の著作に非常にわかりやすくまとめてあるので、是非ご自分であたってみていただきたいし、私のブログでも何度となく取り上げてきたトピックでもあるから興味があれば読んでみて欲しい。

 

実のところこれは今では比較的よく知られた論点であり、遠からずこのことを指摘する記事も出てくるであろうと考えていたが、果たして、ノンフィクションライターの窪田順生氏は『日大「内田・井上コンビ」にソックリな人物は日本中の会社にいる』という記事*2 にて、今回の事件が、戦争中に、小笠原諸島の父島の陸海軍部隊が、米軍捕虜数人を軍刀の試し切りなどで殺害して、その遺体の一部を食べたといわれる事件にそっくりであることを指摘している。そして、それに関連した山本七平氏の解説が紹介されている。そこから、窪田氏は、昔も今も『力で言うことを聞かせないと、秩序維持ができない』のが日本人の国民性であると述べる。では、どうしてそのような結論となってしまうのか。そして、本当にそのような国民性は今も引き継がれているのだろうか。

 

 

現代にも引き継がれる日本人の精神の階層

 

後期~末期の昭和(戦後の昭和)はどちらかというと成功体験として語られてきたわけだが、先の戦争以前の昭和(戦前の昭和)は、明治維新以来の日本の帝国主義の終焉と悲惨な敗戦で国が破滅に追い込まれた失敗体験として歴史に刻まれている。戦争の終結を機に、確かに日本はアメリカの支配下で、根本的な変革を迫られ(民主主義の導入、明治憲法の廃止/現行憲法の制定等)、それでも経済的には『奇跡の復活』をとげ、その余勢を駆って一時期は『ジャパン・アズ・No1』の地位にまで登りつめ、少なくとも表向きは、日本人のマインドや価値観も戦前の昭和のそれとはまったく異なったものになったとされた。しかしながら、一見根本的に変わってしまったように見えながら、一皮剥くとそのすぐ下には戦前の昭和と同質の精神の階層が現れ出てくる。注意して見ていると日本社会のあらゆる部分にその痕跡が見つかる。中でも組織運営については特にそれが顕著で、調べれば調べるほど、戦前の昭和の時代の帝國陸海軍と戦後の昭和の(民間企業を含む)組織には、驚くほど共通点が多いことがわかってくる。

 

 

外的動機と内的(内発的)動機

 

円滑に組織を運営し続けるためには、構成員がその組織に服属して働くための『理由』、すなわち『動機』が不可欠となる。そして、『動機』には、金銭報酬(身分の保証、就職の口利き等も含む)のような『外的動機』と承認欲求や組織目的を尊崇する等の『内的(内発的)動機』がある。民間企業の場合特に、通常、『外的動機』が第一の『理由』であり『動機』となるわけだが、軍隊組織のような場合、職業軍人でもなければ、民間企業のような金銭報酬が主な『動機』となることは(本人が余程食い詰めているような例外を除けば)考えにくいから、原則的には、勲章授与のような名誉(承認欲求)、天皇陛下への忠誠心、国を守ることに対する誇り等の『内的(内発的)動機』が(建前であるにせよ)あり、その一方で、上官の暴力や村八分となることの恐怖等が『外的動機』として機能していたと考えられる。

 

ただ、上記の文献を初めとするいくつかの研究や考察を参考にする限り、どうやら昭和期の帝國陸海軍では、敗戦濃厚で厭世気分が漂う末期的な時期だけでなく、一貫して暴力(肉体的暴力だけではなく、精神的な暴力も含む。例えば、軍隊内で村八分になると、除隊後にも自分だけではなく、家族を含めて村八分となる恐れがあった)という『外的動機』が最大の『動機』となっていたようだ。

 

 

 

日本人の暴力志向の背景にある『思想のなさ』

 

窪田氏の記事で、先とは別の例としてあげられている、フィリピン戦線に軍属として派遣された後、捕虜収容所に送られた小松真一氏という人が書き残した『虜人日記』*3 では、そのあたりの事情が生々しく語られている。

 

捕虜収容所では、日本人同士によるすさまじい暴力、リンチなどが横行。小松氏が「暴力団」と呼ぶ勢力が幅をきかせ、恐怖政治を行っていた。が、ある日それらが一掃され、捕虜内の選挙でリーダーが決められるという民主主義的な動きができた。喜ばしいことだと思ったのもつかの間、すぐに問題が起きる。収容所内の秩序が崩壊してしまったのである。

暴力団がいなくなるとすぐ、安心して勝手な事を言い正当な指令にも服さん者が出てきた。何と日本人とは情けない民族だ。暴力でなければ御しがたいのか」(同書)

日大「内田・井上コンビ」にソックリな人物は日本中の会社にいる | 情報戦の裏側 | ダイヤモンド・オンライン

 

小松氏はこのような状況を含めた当時の日本人を冷静に分析して、『日本の敗因二十一か条』としてまとめ、日本人には大東亜を治める力も文化もなかったと結論づけている。

 

小松真一氏の『虜人日記』に触発されて、自身同様の体験を持つ評論家の山本七平氏がこの二十一か条を解説する形で書いた『日本はなぜ敗れるのかー敗因21ケ条』*4 において、山本氏は日本人の『暴力志向』と深く関係しているのは、小松氏が二十一カ条の中に掲げたものの一つ、『思想として徹底したものがなかった事』だと考察している。

 

山本氏は、本書で次のように述べている。

 

文化とは何であろうか 。思想とは何を意味するものであろうか 。一言でいえば 、 「それが表わすものが 『秩序 』である何ものか 」であろう 。人が 、ある一定区域に集団としておかれ 、それを好むままに秩序づけよといわれれば 、そこに自然に発生する秩序は 、その集団がもつ伝統的文化に基づく秩序以外にありえない 。そしてその秩序を維持すべく各人がうちにもつ自己規定は 、その人たちのもつ思想以外にはない 。従って 、これを逆にみれば 、そういう状態で打ち立てられた秩序は 、否応なしに 、その時点におけるその民族の文化と思想をさらけ出してしまうのである ― ―あらゆる虚飾をはぎとって 、全く 「言いわけ 」の余地を残さずに 。そしてそれが 、私が 、不知不識のうちにその現実から目をそむけていた理由であろう 。確かにそれは 、正視したくない実情であった。

『日本はなぜ敗れるのかー敗因21ケ条』より

 

 

今も残る思考/思想のなさと暴力志向

 

これは戦後解消され変化したのかと言えば、少なくとも思考/思想に関しては、むしろ戦前以上に弱体化してしまった。そして、それは平成時代を通じて、さらに拍車がかかっていると言わざるをえない。暴力体質についてはどうだろう。流石に物理的な『体罰』については、戦前に比べれば少なくなったことは間違いない。だが、『精神的な暴力』については、なくなるどころか、形を変えて戦後の昭和にも色濃く残っていたし、昭和が終わって30年経った今でさえ、より陰湿に形を変えながら残り続けているのが実情ではないか。いじめ、坊主頭の強要、連帯責任、スクールカースト、企業でのパワハラ/セクハラ等、その例には枚挙にいとまがない。

 

 

誰も満足していない日本のシステム

 

民間企業について見ても、昭和期のように、まだ組織が『共同体』の体をないしてたころには、多少なりとも愛社精神のようなものが、『内的(内発的)動機』として機能していたと私は思うのだが、実のところそれも怪しいというデータもある。作家の橘玲氏は、1980年代後半(バブル最盛期)の頃に行われた日米比較調査の結果を引用して、日本経済が絶好調の頃の日本と、その一方リストラが相次ぎ企業への信頼感が低かった当時の米国を比較しても、米国人のほうがはるかに仕事に愛着とプライドを持ち、会社に忠誠心を抱き、自分の選択が正しかったと思っていたことを明らかにしている。*5

 

それでも、日本でも、経済が成長して、会社の業績が伸びている間は我慢することにメリットがあった。ところが、バブル崩壊後、企業業績が振るわなくなると、日本でも、多くの企業でゲマインシャフト共同体組織)からゲセルシャフト(利害関係に基づいて人為的に作られた社会組織)化が一層進み、(少数派だったかもしれないが)愛社精神や、日本的経営に対するプライド等に代わる『内的(内発的)動機』の開拓にはほとんど手付かずのまま、年功賃金を成果主義的な賃金体系へシフトし、正規雇用非正規雇用に置換え、賃金格差を大きくするような、欧米流の経営を真似て『外的動機』で組織運営を乗り切ろうとする企業が続出する。しかしながら、一方で解雇規制が強く残り、生涯賃金で見ると転職が圧倒的に不利な体制をそのままに、『欧米流』を木に竹を継ぐように導入しても状況を悪化させるだけだ。現実に、世界価値観調査等の統計で見ると、今や日本人は、『世界でいちばん仕事が嫌いな国民』となり、仕事は収入を得るための手段であって、それ以外のなにものでもない』という意見にそう思うと答える人の比率が上位の国となり*6『企業に任せておけば自分の国の経済問題はうまく解決されていく』と考えている人の比率は圧倒的に世界最下位となってしまった。*7

 

驚くべきことに、日本人から見れば、業績が悪くなれば、従業員を簡単にリストラするように見える冷徹な『欧米流』の経営が主流の国のほうがむしろお金には換えられないやりがいを仕事に見出しているということになる。このデータを紹介している橘氏は、『連合がほんとうに労働者の幸福を考えているのなら、成果主義の導入と解雇規制緩和(あとは定年制の廃止と同一労働同一賃金)こそが目指す道だろう』とコメントを述べているが、今の日本では、成果主義が幸福に繋がることは難しそうだ。

 

 

内発的動機を喚起できない日本企業の経営者

 

というのも、近年の学習心理学の研究等で明らかにされて来たように、金銭のような報酬による外的動機は、常に上がり続けなければ維持できず、しかもある段階以上は『動機』としては機能しなくなるばかりか、様々な面でその報酬の対象となる人々の創造性や健全な動機を破壊することが知られている(アンダーマイニング効果等)。そのため、優れた企業の経営者は、世界の中に置かれた自らの立場を徹底的に分析し直して、企業の社会における存在意義や社会的使命を再定義し、社員の『内的(内発的)動機』を換気することが大きな(世界的な)トレンドとなっている。ところが、今のほとんどの日本の経営者には『確固たる思想』があるわけではないため、それが本当に(建前ではなく)理解できている企業が非常に少ない。

 

まだ企業業績も全般に良かった昭和期には、企業の経営者への『あなたの企業の社会的使命は何か?』という問いかけに対して、『企業収益を増大して、税金を沢山納め、従業員に報酬を多く出すことが企業本来の使命』と答えて胸を張る経営者が多く、そのような物言いが、思考や思想のなさを覆い隠すベールとして機能していたものだが、日本の労働者の賃金が高騰して、非正規社員比率を増やさざるをえなくなり、また、海外にシフトしないと経営が成り立たない時代になると、そのような言い訳も通用しなくなり、これにかわる社会的使命を示すこともできず、思想などなかったことがばれて、馬脚を露わすことになってしまった。

 

こうなるとおよそ健全な動機が機能しなくなるから、勢い最後の手段として、管理を強化して減点主義を徹底したり、トップダウンの強圧的な恐怖政治を敷く等、まさに『暴力/パワハラ』による経営に頼るしか無くなってしまう。近年、社会的使命を語ることができないどころか、どこから見ても社会的使命を終えている企業まで政府系ファンドに泣きつくことでゾンビのように生き残る、いわゆる『ゾンビ企業』が非常に多くなっているが、特にそのような企業では、『暴力/強権経営』が幅をきかしている例が非常に多い。思想がないのは、経営者だけではなく、従業員も同様なので、結局日大アメフト部のような組織だらけとなる。上位者がどんなに酷くても、そんな上位者の指示に黙って従ってしまう。これでは、日本の企業が海外企業と比較して、どんどんその存在感を無くしているのも当然というしかない。

 

 

教養のない実務家は危険な存在

 

哲学科出身という異色の経歴を持つコンサルタント、山口周氏は、『日本には、教養がないまま地位だけを手に入れた実務家が多い』と述べ、現代のほとんどの日本の経営者に『確固たる思想』がないことを別の角度から述べている。そして、エリート経営者の教育機関として名高いアスペン研究所の発起人の一人であるシカゴ大学教授(当時)のロバート・ハッチンス氏の『無教養な専門家こそ、われわれの文明にとっての最大の脅威』との指摘を引用している。*8 ハッチンス氏は、哲学を学ばずに社会的な立場だけを得た人、そのような人は『文明にとっての脅威』、つまり『危険な存在』になってしまうと指摘している。ただ、組織として弱体化してしまうというだけではなく、文明にとっての脅威、というのは非常に辛辣だが、思想や哲学より感情の動員だけで乗り切ろうという政治的リーダーであふれた昨今の世界の情勢を見ているとその意味がわかろうというものだ。

 

 

思考しなければどんな犯罪でも犯してしまう

 

哲学者のハンナ・アーレント女史は、ナチス親衛隊の一員として数百万人のユダヤ人を収容所に送ったアイヒマンの裁判を傍聴した。アイヒマンは被告席で『上からの命令に従っただけ』と繰り返す。アーレント女史は、その言動のあまりの矮小ぶりに驚愕し、アイヒマン巨悪に加担した残虐な怪物とは程遠い、単なる凡庸な小役人だったと断じた。そして、人は『思考しなければ、どんな犯罪を犯すことも可能になる』と結論づけている。

 

このアイヒマン裁判に着想を得て、スタンリー・ミルグラムという心理学者が行った有名な実験(ミルグラム実験アイヒマン実験とも呼ばれる)*9があるが、そこから導かれた結論は、閉鎖的な環境では、誰でも権威者の指示に服従して、悪魔のように振る舞ってしまうことがある、ということであり、まさにアイヒマンのように、権威の庇護にある安全圏で、個人の思考を放棄すると、善悪やモラルの判断まで放棄してしまうことがありありと示されていた。ここに、ハッチンス氏が、哲学を学ばずに社会的な立場だけを得た人が『危険な存在』になってしまうと述べたことの典型的な事例が示されているわけだが、今の日本の実務家の多くはまさにこの『アイヒマン』状態にあるように思えてならない。先の窪田氏の記事にあるような、日本人の暴力志向とも見える国民性というのも、日本人が残虐な怪物なのではなく権威者にも配下にもしっかりした思想がなく、権威者は暴力以外に組織を運営するすべを持たず、配下は権威者にさからわず、個人の思考を放棄しがちなため、客観的に見れば法律違反であったり、モラルに反していたり、時には人道に反するようなことでさえ黙々とやってしまいがちになる、ということではないのか。

 

今の日本の危機的な状況は、哲学せず、教養がなく、あまつさえ、それを不要と強弁し、教養教育より実学重視と、深い思想の裏付けもなく述べるような実務家が、その実務で得た強い立場を生かして、組織運営を行ったり、発言したりして、その影響力が大きくなりすぎていることにその主要な原因があるように思う。そして、その結果として、先に述べた通り、今や企業経営者も政治家も官僚も、国民から世界で最も信頼されない存在と成り果ててしまっている。

 

 

昭和を終わらせ新しい時代へ

 

山口氏は、著書『武器になる哲学*10で、平成という時代を総括して、『昭和を終わらせることができなかった時代』であったと述べているが、これは卓見だと思う。バブルが崩壊してもその株価は回復するとの夢から覚めることができず、ものづくり世界一と賞賛された夢から覚めることができず古い製造業のビジネスモデルに固執し続ける等、ここに様々な『終わらせられなかった夢』を列記することができる。戦後~昭和末期くらいまでは、冷戦期ということもあり、世界の秩序は今より安定していて日本は世界政治に関与せず経済問題に集中できたし、日本は賃金もまだ低かったから、あまり難しいことは考えずに目先のカイゼンに切磋琢磨していればよかった。実務家は実務以外のことは考えないことが一種のモラルであり、真面目さと考えられてさえいた。日本の『思考しない/思想のない実務家』が高い地位を得て承認されていたことにはそれなりの時代背景もあったということだ。それもまた一つの昭和の夢であったが、もうその夢からも覚めなければやっていけない時代になった。世界ははるかに複雑で、誰も考えなかったようなイノベーションが必要となり、自動運転、遺伝子工学人工知能等一歩間違うと人間の存在が危うくなるようなテクノロジーに日常的に対峙しなければならない。世界は実務以外知らず、思想のない人に任せられるほどのんびりした場所ではなくなってしまった。

 

平成も終わりが近づいているが、来るべき新しい時代は、あらためて昭和をいい形で終わらせ、一人々々が自分で思考し、哲学し、教養を涵養し、そして新しい世界を切り開いていける時代にしていく必要がある。