現代に“復活”した一人称視点のシューティング、その古くて新しいゲーム世界が生み出す「物語」の底力

1990年代に人気を博した一人称視点のシューティングゲーム「Doom」のように、かつてのゲームは限られたグラフィックによって描かれた「空間」を通じて魅力的な物語をつくりだしていた。2018年に発表された「Dusk」と「Amid Evil」という2本のゲームは、こうしたストーリーテリングの可能性を思い起こさせる「古くて新しい」作品だ。その魅力を、『WIRED』US版のゲーム担当ライターが徹底解説する。
現代に“復活”した一人称視点のシューティング、その古くて新しいゲーム世界が生み出す「物語」の底力
「Amid Evil」は懐かしの一人称視点シューティングゲーム(FPS)を思い起こさせる。IMAGE COURTESY OF NEW BLOOD

1990年代に一世を風靡した一人称視点のシューティングゲーム「Doom」のプログラマー、ジョン・カーマックは、自身がつくったゲームのナラティヴ(物語)としての可能性を否定したことで有名だ。カーマックは、自身のプロットをポルノ映画のそれにたとえることさえした。

だが、「Doom」のオリジナルストーリーを生涯忘れることはできない。それは生き残りをかけた海での戦闘のような、マニュアルのなかで語られる物語ではない。デザイナーであるジョン・ロメロによる「レヴェルデザイン[編注:ゲーム世界における空間・環境デザイン]」を通じて語られる物語だ。

合理性に満ちた無味乾燥で巨大な人間世界から、不気味な地獄へとゆっくり下りてゆく物語。感染の物語であり、血と眼と超自然の恐怖が現実に浸透してくる物語。プレイヤーたちはショットガンを手にとり、出口を探して戦う。

こんなふうにナラティヴが語られるゲームは、いまはもうそう多くない。いまでは珍しいものになった90年代の一人称視点シューティングゲーム(FPS=First Person shooter)特有のレヴェルデザインには、何かがある。こうした古いタイプのゲームには、デザイナーの細部へのこだわりと複数の空間がもつ、不安にさせるような静けさの「錬金術」が存在していた。

それはゲームミッションの制御や、ゲームのプレイヤーにあらゆる方法で語りかけてくるノンプレイヤーキャラクターの登場よりもはるか前のことである。デザイナーがつくり上げる抽象的で奇妙な空間とプレイヤーだけが存在するとき、ゲームのなかでは魅力的なことが起きる。

当時の技術的な限界のせいで、ゲーム内の空間は単なる複雑な迷路のような存在でしかなかった。そこには、ところどころに空やいくつかの箱、先を見通すのが難しい壁の装飾といったディテールが描き込まれている。

こうして描かれる抽象的な「銃の迷宮」と呼べるような空間や、プレイが進むにつれてその全貌が明らかになっていくゲームシステムのなかで物語的な感覚をつくりだすのは、ひとつの「芸術」と呼んでもいい作業だった。

それらは、考えうるなかで最も記憶に残る物語の形式だったのだ。きっとそれが静かに、暗黙のうちに、何かを伝えてくるからだったのだろう。いくつかの物事は、言葉より雄弁にストーリーを語るのである。

古きよき伝統の回復

こうした芸術的な技巧とその生かし方を思い出させてくれる新たなゲームが、2018年になって2本も登場したことは、このうえない喜びと言っていい。今年発売された2つの作品は、古きよきシューティングゲームの伝統に則ったものになっているのだ。

つまり、ゲームプレイのクールさと、オリジナルの作品をこれほどまでに強く記憶に焼き付けた「細部へのこだわり」を併せもっている。どちらもSteamからPC向けに早期アクセス版がリリースされ、New Bloodから発売されている。

Dusk」は、オカルト風のホラーワールドを舞台に、速いペースで展開するシューティングゲーム。「Amid Evil」は、「Hexen」の流れを受け継いだファンタジー系シューティングゲームだ。この2作品はどちらもゲームプレイが面白いだけでなく、「ゲーム世界のなかを動き回りながら考えること」を魅力的にしていたものが何だったのか、思い出させてくれる。

「Dusk」は、地下の隠れ家からスタートする。それはどこかわからない田舎にポツンとある一軒家だ。フードをかぶったカルト教信者たちがあなたに向かって発砲してくる。

あなたは手に持っている2本の鎌で応戦する。「Quake」や、映画『悪魔のいけにえ』のように、このゲームは見ず知らずの信頼できない人間に囲まれて田舎にひとりでいることの無防備な恐怖を思い起こさせる。

しかも「祖先」である90年代のゲームたちの入り組んだ空間デザインまで再現している。トウモロコシ畑に建つ教会、どこまでも続く灰色の空、じっと動かない雲を想像してみてほしい。最初のほうに登場する空間のひとつで経験する印象的な瞬間では、ボタンを押すと足元の地面が消え、世界がすべて壊れ、底が知れないどこかへ落ちていくような幻想的な体験をつくり出している。

「Amid Evil」も同じく謎に満ちていて、よくつくりこまれているゲームだ。あなたはある宗教施設にいる。地下の聖域に踏み込むと、岩を切り出した広間が広がっている。それは不気味な神秘の世界への旅へとプレイヤーを誘う「ミステリーボックス」だ。その世界は、現実離れした歴史が目の前で展開していくようデザインされている。

想像を広げる「対話」の場

どちらのゲームもスリリングでスピード感があり、一人称視点シューティングの素早い戦闘の魅力を十分に味わえる作品になっている。しかし同時に、古いタイプのゲームデザインにおいて大切だったもの、そしていまでも大切なのものを正確にとらえている。

どちらのゲームも抽象性と特殊性、プレイヤーの孤立感の組み合わせ方が完璧なのだ。その組み合わせは、「Doom」やその類似作品を面白いゲームに仕立て上げたものでもある。これらのゲームはナラティヴ、つまり空間と時間に関する独特な感覚を、ゲームレヴェルの展開に組み込んでいくヒントを見事に示している。

「Amid Evil」のなかで、秘密の通路によって聖域が世界の交差する踊り場へと姿を変えたように、抽象的なタイルのセットや時代遅れのグラフィックでできた空間は、何かが起きそうな可能性と謎を予感させる。プレイヤーもそんな期待をしながらゲームを進めるはずだ。

こうした空間は、想像力を呼び起こしたり比喩的な旅につなげたりする「対話が広がる場」となるべきだ。その道は地獄へと続くかもしれないし、天国へと続くかもしれないし、その間のどこかに繋がっているのかもしれない。こうしたゲーム空間をつくること自体は古い芸術表現だが、18年にそれが“発掘”されたことは喜ばしい。


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TEXT BY JULIE MUNCY

TRANSLATION BY SATOMI FUJIWARA/GALILEO