世界から『』が消える

「ヴ」
皆さんは、この文字、発音を普段どれくらい使っているだろうか?

この春、世界からこの「ヴ」が消えようとしている。

といっても国名の話だ。
「セントクリストファー・ネー『ヴ』ィス」というカリブ海の国の名前が「セントクリストファー・ネービス」に、そして「カーボ『ヴ』ェルデ」というアフリカにある島国が「カーボベルデ」に変わる。これで日本語の国名からは『ヴ』がなくなるのだという。
なぜ変わるのか、そもそも外国の日本語名ってどうやって決めているのか。そんな外国にまつわる日本語の不思議を探ってみた。
(政治部・外務省担当 小泉知世)

国名ってどうやって決まるの?

「ヴ」の消滅を知ったきっかけは、1月から始まった通常国会だった。
この国会に外務省が提出している唯一の法案が「在外公館名称位置給与法」の改正案だ。

この法律は、海外にある日本の大使館や総領事館の名前、それに海外で働く職員の手当などを定めている。「在○○日本国大使館」という風に、必ず現地の大使館にはその国の名前がつく。実はこの法律に基づいて、各省庁の法律や文書などに記載される国名の表記が統一されているのだ。

なぜ国名を変えるの?

法律の改正は、条文の見直し作業から国会議員への説明、衆参両院での審議など、そのプロセスは簡単ではない。

なぜ法律を改正して、この一文字を無くすに至ったのか。
「ひとことで言うと、ヴを使わない表記の方がいまの国民になじみがあることがわかったからです。法律を制定した当時はヴを使うケースが多かったようですが、徐々になじみのある表記が変わってきたのでしょう」

そう答えたのは、今回の法改正を担当している、外務省大臣官房総務課の課長補佐、八幡浩紀さん。見せてくれたのは、山積みの本だった。

「広辞苑」「大辞林」「現代用語の基礎知識」それにNHKの「ことばのハンドブック」もある。私たち記者も使っている本だ。
「去年たまたま、セントクリストファー・ネーヴィスとカーボヴェルデの両方の外相が来日して、表記のことが話題になったんです。職員や外部の方から、国名の表記について指摘を受けると、私たちはこうして1冊ずつ開いて、国名の表記を確認します。今回は全部で9種類の資料を使いました」

八幡さんによると、今回の調査では、どちらの国についても「ヴ」を使っていたのは1冊だけ、残りの8冊は「ビ」や「べ」を使っていて、「ビ」や「ベ」の“圧勝”だったという。

「日本国内で相手の国をどう呼ぶかというのは、時代とともに変わることがあります。国民の間で広く定着した言葉と外務省の表記が違っていると、ホームページを検索しても見つからなくて困るでしょう。最も重要なのは国民のわかりやすさです」

国名の「大改革時代」

外務省によると、この2つが「ヴ」を使っていた最後の国。
逆に、かつては「ヴ」を使った国はいくつもあったのだという。例えば、先の米朝首脳会談で注目を集めた「ベトナム」は以前は「ヴィエトナム」、政治的な混乱が続いている「ベネズエラ」も以前は「ヴェネズエラ」だった。

多くの国名が変わる転機となったのが、平成15年の法改正だ。この年に国名の大改革が行われた。
多くの国名で「ヴァ、ヴィ、ヴ、ヴェ、ヴォ」は「バビブベボ」に改められ、「ティ」や「テュ」も「チ」や「チュ」に姿を変えた。

このほか、「カタル」か「カタール」かといった音をのばすかどうかや、「コスタ・リカ」か「コスタリカ」かといった「・」を置くかどうかも見直され、実に60の国の表記がこの年の法改正で変わった。

八幡さんは次のように解説してくれた。

「法改正が行われた当時、外務省は相次ぐ不祥事を受けて改革を進めていました。その中で国民の感覚とずれている部分は直していこうという流れの一環で、国名の表記も見直すことになったんです。法律を定めた時には現地の発音を重視していましたが、改めて調べてみると一般的な使われ方と、かなり差があることに気がついたのでしょう」

しかし、セントクリストファー・ネーヴィスとカーボヴェルデの2つの国は見直しはされず、残っていたという。
「平成15年の時も同じ方法で調べて見直しを行っているはずなので、当時はまだヴの方が多かったのだと思います。日本語が徐々に変わることで、最終的にヴの表記が減っていったのでしょう」

「ヴ」は福澤諭吉が広めた?

国名をはじめとするカタカナの表記は、時代とともにどう変わってきたのだろうか。外来語の歴史に詳しい国立国語研究所の間淵洋子さんに話を聞いた。

「外来語が本格的に日本に入ってきたのは明治時代です。当時はまだ外国語をカタカナで表記する明確なルールはなく、学識のある人たちがさまざまな表記を試行錯誤していました。例えば『独逸』と原音に近い漢字をあてて『ドイツ』とカタカナの表記になおすケースもありました」
間淵さんによると「ヴ」という文字を広めたのは明治時代の教育家、福澤諭吉だという。

大正時代に入ると、外来語をカタカナで書くことが定着し、間淵さんによると、政府が「ヴ」を「ブ」に「ティ」を「チ」に統一するよう表記のルールを示したこともあったという。しかし、こうした流れは第2次世界大戦で一変する。

ナショナリズムの高まりにより、戦時中、日本語では英語を「敵性語」として排斥する動きが広まり、自主的に使用が規制されていった。バレーボールは「排球」、カレーライスは「辛味入汁掛飯」などと表現され、外来語は姿を潜めることになった。

外来語は戦争でリセットされた

戦争が終わると、アメリカの占領下にあった日本には一気に外国語が入ってきた。新たな言葉を既存の日本語に置き換える手間がかかることや、欧米文化への憧れもあったのか、現地の国の発音に寄り添う形で、カタカナで発音や表記をしようという流れが高まったという。

こうして「ヴ」や「ティ」といった、古くからある日本語の発音としてはなじみのない音が使われる様になった。在外公館名称位置給与法が初めて制定されたのもこの頃。終戦から、7年がたった昭和27年のことだ。

「外来語は戦争によって一度リセットされたのです。法律の表記は戦後の変わろうとしていた時代の名残だと思います」

時代に合わせて

しかし、時間がたつにつれて「発音しづらい」という意見が増えていった。

当時は誰もが英語になじみがあるわけではなく、徐々に日本人になじみのある、発音しやすい言葉に修正されていったのだ。教科書など教育現場はいち早く、子どもが学びやすい平易な表現を使うようになり、新聞や雑誌、放送などメディアも独自に読みやすい地名や人名の表記を決めていった。

「外務省の表記の見直しは、こうした世間の流れも受けて、やや遅れる形で行われたのでしょう。日本語ではこうした表記の『ゆれ』が長年にわたって続いているのです」と指摘する。

人名も、悩ましい

時代の流れによって変わってきた国名の表記だが、外交の現場では、頻繁にカタカナに悩まされている。そのひとつが、人名だ。

ある日の国会で、こんな質問が飛んだことがあった。
「先日、レックス・ティラソン国務長官が来日したが、国務長官の名前表記が大臣も外務省も一貫してティラソンというふうに使っている。一方、メディアの報道は『ティラーソン』というふうに表記されているが理由をお聞かせ願いたい」

アメリカの前国務長官、ティラーソン氏の表記が報道各社と外務省で違うというのだ。

これについて、外務省の当時の森 北米局長は「これは必ずしも特定の基準があるわけではなく、基本的に当該外国における実際の発音に照らして、最も近いと考えられる仮名表記を用いることとしております。

アメリカ人一般が行っている実際の発音を聞き、最も近い仮名表記としてティラーソンではなくて、ラをのばさないティラソンということとした次第です」と説明した。

こうした例は少なくない。
ティラーソン氏の後任、「マイク・ポンペイオ国務長官」も、NHKでは「ポンペイオ」と表記しているが、外務省では「ポンペオ」と表記。

ロシアの「ウラジーミル・プーチン大統領」も就任当初は「プチン」と表現する新聞社があったという。

外務省の職員たちも「人の名前はなかなか難しい」と口をそろえる。
閣僚の交代などで頻繁に判断しなければならない機会がある上、相手のある話なので、簡単に修正するわけにもいかない。現地での発音や日本人へのなじみやすさから現地の大使館を中心に決めているそうだが、一度決めても報道される表記と違うということもしばしばだ。

さらに、なじみのある英語ならまだしも、アラビア語やブータンのゾンカ語など、発音しづらい名前がある言語も少なくない。

外務省の関係者も「やはり報道される名前が結果的に広く知られることが多いので、外務省だけ表記が違うというのもわかりづらいですよね」と話す。外交の現場では表記をめぐる悩みが常につきまとうのだ。

さよなら「ヴ」、でも…

普段、何気なく使っている世界の国や人の名前。
その言葉ひとつひとつには、時代の流れやそれを考えた人の努力が反映されている。「ヴ」は、消えていく運命にあるのか。

でも、シェークスピアの「ヴェニスの商人」は、「ベニスの商人」だと、なんとなくしっくりこないというのは私だけではないだろう。(ちなみに「ヴェニス」は英語名。外務省での正式表記は、イタリア語の「Venezia」から「ベネチア」である。「ヴェネツィア」ではない)

時代の流れの中で消えた「ヴ」もまたいつか、地図の上に戻ってくる日が来るかもしれない。
そんなことを考えながら世界地図を手に取ってみると、またひと味違って見えてくるものだ。

政治部記者
小泉 知世
平成23年入局 。青森局、仙台局を経て政治部へ。現在、外務省担当。