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漫画家 琴葉とこちゃんが亡くなりました。

とこへ、画像お借りします。

2018年7月5日に漫画家の琴葉とこちゃんが亡くなりました。遺族からは『事故死』と説明されました。

そして2019年5月12日のコミティア128にて、しぐまごまと彼女が今までやった仕事や、私たちが思うことをまとめたものを『あの部屋と缶ビール』というタイトルの本を出しました。
(後日通販あります。)
彼女がなくなったことをすぐに言えなかったのは理由があり、それは本に書いてあります。気になる人は買ってください。

そしてここからは私が感じたことの文章になります。

今までは知り合いの知り合いとか、直接会ったりはするけれどイベントで1回会ったことしかない人たちが逝ってしまい、それをただみているだけだった。今回は違くて、10年来の付き合いでとこが中学生で私は高校生のときに出会った。月に1回は会ったりとこの家でお泊り会を何度もした記憶がある。

仲の良かった友人の死の前に「私は無力だ」とぼんやり考えた。
電話でとこの死の知らせを受けた。私はその時泣けず、報告してくれたごまの声が震えていたのを覚えている。とこと仲が良かった子に「とこ、死んでしまったらしい」と告げると「あー、やっぱり。ちゃんと逝けたんだね。」と話していてた。“ちゃんと逝けた”、その発想はなかったな、その友人らしい言い方だった。

夜寝る前になり、布団の中で考える。「なぜあの子が?」と。亡くなったとこは今まで何度もODで運ばれていた。Twitterで数日反応がないと危険なのではと、皆で連絡を取り合っていた。今回はみんな忙しかったこともあり、誰もとこに連絡ができなかった。

『死』というものを考えるたび、
私は『死』に近づいていってるような気がする、それは悪い意味ではない。案外死ぬことは悪い事じゃないのかも、もう会えないけど皆いつかは死ぬ、いきつく所は同じ。それが早いか遅いかの違いでしかない。

そうやって気丈に考えられるときとそうではない時がある。いつもいろんな意味でとこの事を考えている、「会えたらなんて言おうかな」とか好きそうなものを街中でみかけたら「とこ、これ好きそうだな」と思う。

ひだまりのような人間だった、優しさに満ち溢れて一緒にいて楽だった、楽しかった。

ああでも、さびしいな。さびしいよ。

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