昨今、出版の世界から耳を疑うようなニュースが流れてくることが増えた。

 新潮社の月刊誌「新潮45」が、LGBTの人々を「生産性がない」という言い方で貶める杉田水脈衆議院議員による極めて差別的な論文を掲載したことで批判を浴びたのは昨年の夏(8月号)のことだった。

 批判にこたえるかたちで、「新潮45」の編集部は、10月号の誌面上で、「そんなにおかしいか、『杉田水脈』論文」という特集企画を世に問うた。

 全体的に粗雑かつ低劣な記事の並ぶ特集だったが、中でも小川榮太郎氏の手になる記事がひどかった。

 「LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものなのだというなら、SMAGの人達もまた生きづらかろう。SMAGとは何か。サドとマゾとお尻フェチ(Ass fetish)と痴漢(groper)を指す。私の造語だ。」

 などと、LGBTを世に言う「変態性欲」と意図的に混同した書き方で中傷した氏の文章は、当然のことながらさらなる炎上を呼び、結果として、「新潮45」は廃刊(表向きは「休刊」ということになっている)に追い込まれた。

 以上の出来事の一連の経緯を傍観しつつ、私は当連載コーナーの中で、3本の記事をアップしている。

杉田水脈氏と民意の絶望的な関係
「新潮45」はなぜ炎上への道を爆走したのか
「編集」が消えていく世界に

 これらの記事は、いずれも、今回、私が俎上に載せるつもりでいる話題と同じ背景を踏まえたものだ。

 その「背景」をあえて言語化するなら
「雑誌の断末魔」
 ということになる。あるいは
「出版業の黄昏」
 でもかまわない。

 いずれにせよ、私たちは、20世紀の思想と言論をドライブさせてきたひとつの産業が死に絶えようとするその最期の瞬間に立ち会おうとしている。

 お暇のある向きは、上に掲げたリンク先の3本の記事を順次読み返していただきたい。

 ついでに、幻冬舎の見城徹社長が、同社から発売されている「日本国紀」(百田尚樹著)の記述の中にある剽窃をめぐって、同社で文庫を発売する予定になっていた津原泰水氏を中傷し、氏の前作の実売部数を暴露した問題について考察したつい半月ほど前の原稿にも、目を通しておいていただくとありがたい。

 どちらの事件も、登場人物の振る舞い方や処理のされ方こそ若干違っているものの、「出版の危機」がもたらした異常事態である点に関しては区別がつかないほどよく似ている。

 なんというのか
「貧すれば鈍する」

 という、身も蓋もない格言が暗示しているところそのままだと申し上げてよい。

 あるいは今回取り上げるつもりでいる話題も、
「貧すれば鈍する」

 というこの7文字で論評すれば、それで事足りる話なのかもしれない。

 たしかに、業界の外の人間にとっては
「しみったれた話ですね」

 という以上の感慨は浮かばないのかもしれない。

 なんともさびしいことだ。

 話題というのは、講談社が発売している女性ファッション誌「ViVi」のウェブ版が、自民党とコラボレーションした広告企画記事を掲載した事件だ。

 「ハフポスト」の記事によれば経緯はこうだ。

《講談社の女性向けファッション誌「ViVi」のウェブ版が、自民党とコラボしたことが話題となっている。
「ViVi」は6月10日、公式Twitterで「みんなはどんな世の中にしたい?」と投稿。「#自民党2019」「#メッセージTシャツプレゼント」の2つのハッシュタグをつけて自分の気持ちをつけて投稿するキャンペーンを発表した。
計13人に、同誌の女性モデルら9人による政治へのメッセージが描かれたオリジナルTシャツが当たるという。─略─》

 私がこのコラボ広告記事の企画から得た第一印象は、
「あさましさ」
 だった。

 これまで、雑誌や新聞が政党や宗教団体の広告を掲載した例がないわけではない。

 というよりも、選挙が近づくと、各政党はあたりまえのように広告を打つ。これは、政党と広告に関する法規制が緩和されて以来の日常の風景だ。

 であるから、私自身
「政党が広告を打つのは邪道だ」
 と言うつもりはない。

 逆に
「雑誌が政党の広告を乗せるのは堕落だ」
 と主張するつもりもない。

 ただ、今回の「コラボ・メッセージつきTシャツプレゼント企画」に関して言えば、「一線を越えている」と思っている。

具体的に言えば
「政党が雑誌購読者に告知しているのが、党の政策や主張ではなくて、Tシャツのプレゼントであること」
 が、うっかりすると有権者への直接の利益ないしは利便の供与に当たるように見えることと、もうひとつは、
「今回のぶっちゃけたばら撒きコラボ広告は、ほんのパイロットテスト企画で、自民党の真の狙いは、参院選後の憲法改正を問う国民投票に向けたなりふりかまわない巨大広告プロジェクトなんではなかろうか」

 という個人的な邪推だ。

「なんか、駅前でティッシュ配ってるカラオケ屋みたいなやり口だな」
「オレはガキの頃おまけのプラスチック製金メダルが欲しくてふりかけを1ダース買ったぞ」
「そういえば、シャッター商店街の空き店舗で電位治療器だとかを売りつけるSF商法の連中は、路上を行く高齢者に卵だのプロセスチーズだのをタダで配っていたりするな」

 さて、自社の雑誌に自民党とのコラボレーションによる広告企画記事を掲載したことについて、「ViVi」を制作・販売している講談社は、以下のようにBuzzFeed Newsへの取材に対してコメントしている。

《このたびの自民党との広告企画につきましては、ViViの読者世代のような若い女性が現代の社会的な関心事について自由な意見を表明する場を提供したいと考えました。政治的な背景や意図はまったくございません。読者の皆様から寄せられておりますご意見は、今後の編集活動に生かしてまいりたいと思います。》

 このコメントには、正直あきれた。

 言葉を扱うことの専門家であるはずの出版社の人間が、政党の広告を掲載することに「政治的な」「意図」や「背景」がないなどと、どうしてそんな白々しい言葉を公の場で発信することができるのだろう。

 羞恥心か自己省察のいずれかが欠けているのでなければ、こんな愚かな妄言は吐けないはずだと思うのだが、あるいは出版社の台所事情は、自分にウソをついてまでなりふりかまわずに広告収入を拾いにかからねばならないほど危機的な水準に到達しているのだろうか。

 仮に講談社の人間が
 「わたくしどもが発行している雑誌に特定の政党の広告を掲載する以上、政治的な意味が生じることは当然意識していますし、われわれが政治的な意味での責任を負うべきであることも自覚しています。ただ、それでもなお、社会に向かって開かれた思想と多様な言論を供給する雑誌という媒体を制作する人間として、われわれは、政治に関連する記事や広告を排除しない態度を選択いたしました。」

 とでも言ったのなら、賛否はともかく、彼らの言わんとするところは理解できたと思う。

 が、彼らは、政党の広告に政治的な背景があることすら認めようとしない。

 これは、酒を飲んで運転したドライバーが
 「このたびの運転に際して、私は2リットルほどのビールを摂取いたしましたが、あくまで会社員の付き合いとして嚥下したものでありまして、飲酒の意図やアルコール依存症的な背景は一切ございません。警察署の皆様から寄せられておりますご意見は、今後のビール摂取と自動車運転の参考に生かしてまいりたいと思います。」

 と言ったに等しいバカな弁解で、たぶんおまわりさんとて相手にはしないだろう。

 もうひとつ私が驚愕しているのは、今回の自民党&講談社のコラボ広告企画を、不可思議な方向から擁護する意見が湧き上がってきていることだ。

 ハフポストがこんな記事を配信している。

 この記事の中で東京工業大学准教授の西田亮介氏は、
1.責められるべきは、自民ではなく「多様性の欠如」
2.公教育では身につかない政治リテラシー
3.政治を語ることをタブー視してはいけない

 という3つの論点から、自民党によるこのたびのコラボ広告出稿を
「よくできている」
「自分たちの政治理念を政治に興味がない人たちに広く訴求したい、若者や無党派層を取り込みたい、とあれこれ手法を凝らすのは、政党として当然です」

 と評価し、むしろ問題なのは、自民党以外の政党が自民党の独走を許している状況であると説明している。

 さらに氏は、結論として、政党広告への法規制が解除されている現状を踏まえるなら、政党に限らず、雑誌をはじめとするメディアやわれわれ有権者も含めて、もっと政治についてオープンに語る風土を作っていかなければならないという主旨の話を述べている。

 この記事の中で西田氏が述べている論点は、ひとつひとつの話としては、いちいちもっともだと思う。

 ただ、個々の論点がそれぞれに説得力を持っているのだとしても、それらの結論は、今回の自民党と講談社によるコラボ広告企画が投げかけている問題への説明としては焦点がズレている。

 というよりも、私の目には、西田氏が、今回の問題から人々の目をそらすために、政治と広報に関する角度の違う分析を持ち出してきたように見える。

 あるいは、私が西田氏のような若い世代の論客の話を、かなり高い確率でうまく理解できずにいるのは、「競争」という言葉の受け止め方が、違っているからなのかもしれない。

 私のような旧世代の人間から見ると、21世紀になってから登場した若い論客は、「競争」を半ば無条件に「進歩のための条件」「ブラッシュアップのためのエクササイズ」「組織が自らを若返らせるための必須の課題」「社会を賦活させるための標準活動」ととらえているように見える。

 もちろん、健全な市場の中で適正なルールの範囲内において展開される競争は、参加者に不断の自己改革を促すのだろう。

 ただ、私はそれでもなお「競争」には、ネガティブな面があることを無視することができない。

 たとえば、政治に関する競争について言うなら、政策の是非を競い、掲げる理想の高さを争い、政治活動のリアルな実践を比べ合っている限りにおいて、「競争」には、積極的な意味があるのだ、と私は思っている。だからこそ、政党や政治家は、もっぱら「政治」というあらかじめ限定されたフィールドの中で互いの志と行動を競っている。

 ところが、広報戦略の優劣を競い、民心をつかむ技術の巧拙を争うということになると、話のスジは若干違ってくる。

 その政治宣伝における競争の勝者が、政治的な勝利を収めることが、果たして政治的に正しい結末なのかどうかは、大いに疑問だ。

 さらに、政治家なり政党が、雑誌広告の出稿量や、メディアへの資金投入量や、広告代理店を思うままに動かす手練手管の多彩さを競わなければならないのだとすると、その種の「競争」は、むしろ「政治」を劣化させる原因になるはずだ。

 より多額な資金を持った者、より多様なチャンネルを通じて商業メディアを屈服させる手練手管を身につけている者、あるいは、より恥知らずだったり悪賢かったりする側の競争者が勝利を収めることになるのだとすると、「政治」は、カネと権力による勝利を後押しするだけの手続きになってしまうだろう。

「条件は同じなのだから、野党も同じように工夫して広告を通じたアピール競争に参戦すればよい」
「より優れた政党広告を制作し、より洗練された戦略で自分たちの存在感を告知し得た側が勝利するのであるから、これほど分かりやすい競争はない」

 と、「市場」と「競争」がもたらす福音を無邪気に信奉する向きの人々は、わりと簡単に弱肉強食を肯定しにかかる。

 私の目には、彼ら「競争万能論者」が「弱者踏み潰し肯定論者」そのものに見える。

 彼らは、自分たちが負ける側にまわる可能性を考えていない。

 あるいは、誰であれ人間が必ず年を取って、いずれ社会のお荷物になる事実を直視していないのかもしれない。

 ともあれ、自分が弱っている時、「勝者のみが報われるレギュレーションが社会の進歩を促すのです」式の立論は、まるで役に立たない。

 対象が「政治」でなく、これが、一般の商品なら、優れた広告戦略を打ち出した企業が勝つ前提は、たいした不都合をもたらさない。

 実際、わたくしどもが暮らしているこの資本主義商品市場では、スマッシュヒットを飛ばすのは、必ずしも歌の巧い歌手ではなくて、より大きな芸能事務所に所属して、より強烈な販促キャンペーンの中で一押しにされている歌手だったりする。

 クルマでも即席麺でも事情は同じで、現代の商品は、商品力とは別に、なによりもまず優れたマーケティングと広告戦略の力で顧客の心をつかまなければならない。

 ただし、政治の世界の競争は、商品市場における商品の販売競争と同じであって良いものではない。

 政党ないし政治家は、議会における言論や、議員としての政治活動を競うことで互いを切磋琢磨するものだ。あるいは、政府委員としての住民サービスの成果を競うのでも良い。

 政党なり政治家が、マーケティング戦略や広告出稿量の分野で「競争」することで、政治的に向上するのかというと、私はむしろ堕落するはずだと思っている。

 出版も同じだ。

 販売部数を競い、売上高で勝負しているのであれば、たいした間違いは起こらない。

 読者に媚びるケースも発生するだろうし、流行に色目を使ったり、二匹目のドジョウを狙いに行って自分たちのオリジナリティーを捨てたりするような悲劇が起こることもある。

 ただ、広告収入にもたれかかるようになると、点滴栄養で生きながらえる病人と同じく、後戻りがきかなくなる。

 オリンピックと憲法改正を睨んで、出版業界の目の前には、巨大な広告収入がぶら下がっている。

 編集部の人間には、美味しく見えるエサには、釣り針がついていることを思い出してほしい。

 まあ、ウジ虫がおいしそうに見えている時点ですでに負け戦なのかもしれないわけだが。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

『街場の平成論 (犀の教室)』(晶文社)


どうしてこんな時代になったのか?
「丈夫な頭」を持つ9名の論者による平成30年大総括

戦後史五段階区分説 ――内田樹
紆余曲折の日韓平成史 ――平田オリザ
シスターフッドと原初の怒り ――ブレイディみかこ
ポスト・ヒストリーとしての平成時代 ――白井聡
「消費者」主権国家まで ――平川克美
個人から「群れ」へと進化した日本人 ――小田嶋隆
生命科学の未来は予測できたか? ――仲野徹
平成期の宗教問題 ――釈徹宗
小さな肯定 ――鷲田清一

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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。