先日、飲み会の席で「…だって世の中、『飛行機がなぜ飛ぶか』ということすら、本当は分かっていないんですから」という声が聞こえてきた。読者の多くの方もきっと、同じ話を耳にしたことがあると思う。
「常識と思っていることは、実は単なる思いこみだ」という文脈か、「科学なんてたいしたことないじゃないか」という話か、そこまでは分からなかったが、声にはちょっと嬉しそうな響きがあった。
高速で空を飛び、多くの人命を載せる航空機がなぜ飛ぶか、本当に分かっていないのだろうか。日本美術史専攻の文系編集者Y、航空力学の世界に挑みます。(Y)
Y:というわけでして、航空力学の論客は何人もいらっしゃいますが、ひときわお話が面白そうな松田先生に教えていただければと思って、本日、京都まで参上致しました。
松田卓也氏(以下松田):せっかく遠くまでおいでいただきましたが、「飛行機はなぜ飛ぶか」は、100年以上前から「分かって」いるのです。
Y:新幹線で来たのに1行で結論が…。それは「科学的に」分かっている、ということですか。
松田:もちろんです。飛行機が飛べるのは、翼が「揚力」を持っているからですよね。そして翼が揚力を持つのは、翼回りに空気の循環があるからです。
Y:循環。空気の渦ができるということでしょうか。
答えは、「空気の循環が翼に生まれるから」
松田:そうです。例えば進行方向を左向きとすると、翼の回りに時計回りの渦が起きる、と考えてください。
循環ができるためには、翼周りの流れが「クッタの条件」(Kutta's condition)を満たすことが必要になります。流れがクッタの条件を満たすと、適切な迎え角を与えることで翼の回りに循環が発生します。
循環によって、翼の上の方が流速が速くなり、これが翼の上下に圧力差を生む。翼の上の方が圧力が低いので、上に引き上げられる力が発生する。ベルヌーイの定理ですね。これが揚力です。
ベルヌーイの定理の前に「クッタの条件」がある
Y:「ベルヌーイの定理では揚力を説明できない」という意見をネットでよく見ますが。
松田:あれは間違いです。ベルヌーイの定理は、流速の違いで圧力差が生まれる部分を説明しています。しかし「なぜ翼の上下の流速が違うのか」を説明するものではない。
Y:なるほど。「流速の差がある」という前提のもとで、圧力差が生まれ揚力が発生することを説明するのがベルヌーイの定理。
松田:そう。そして流速の違いを説明するのが、最初にお話しした「循環」の発生なのです。
ところが「なぜ翼の上の方の空気の流れが速くなるか」の説明が誤っていることが非常に多く、その誤りをもって、「揚力はベルヌーイの定理では説明できない」と勘違いしている人もまた、とても多いのです。まあ、これはあとでお話ししましょう。
Y:では、循環を生む「クッタの条件」とは何でしょう?
松田:簡単に言うと、「翼の前縁で上下に分かれた空気の流れが、後縁で“滑らかに合流”する」ことです。なぜ滑らかに合流するかと言うと、「翼の後縁が尖っている」からです。ちなみに、なぜ尖っていると流れが滑らかに合流するか、については……
(松田先生、懇篤にご教示くださるも、Yの力不足でかみ砕けず)
松田:……ともかく、こう覚えておいてください。翼の後縁は尖っているので、クッタ条件が満たされて、翼上下の流れは滑らかに合流する。すると翼に迎え角がある場合は循環が発生して、揚力が発生する。
Y:翼の後ろのカタチが、飛行機が飛ぶために決定的に重要なのですね。
松田:もうすこしきちんと言いますと、「クッタ・ジューコフスキーの定理(Kutta―Joukowsky's law)」というのがあって、揚力は「(空気の)密度×(飛行機の)速度×(翼の)循環」なのです。これは、20世紀の初めに証明されました。だから、100年以上前から分かっていると申し上げたのです。
循環の大きさを決めれば、クッタ・ジューコフスキーの定理から揚力が決まるわけですよ。となれば、「なぜ飛ぶかは分かっている」といっても差し支えないでしょう。
「翼の上の方が距離が長い…」と出てきたら要注意!
Y:ううむ…。実は私もベルヌーイの定理からくる説明までは知っていたんです。上の方の空気の流れが速いから、圧力が上の方が低くなって、吸い上げられて揚力が発生する。
松田:そのとおりです。間違っていませんよ。
Y:問題は「なぜ上の方が速く流れるか」でしたよね。私が子供の頃学習マンガで読んだ説明はこんな感じです。
前端で上下に分かれた空気は、後端に同時に到着しなければならない。翼の上側の方が膨らんでいるから空気が流れる距離が長い、下側は平らだから短い。したがって、上の空気が速く流れなければならない。
松田:僕の言う「等時間通過説」、あるいは「同着説」ですね。間違いです。最も多い誤解です。
Y:この説明を読んで「そういうもんかな」と思っていたんですが、よく考えるとなぜ上下に分かれた空気が翼端に同時に到着・通過せねばならないのかが、まったく理解できない。
松田:そう、中学生でも分かる穴がある。でも、それが一般的な説明になっている。実際に実験すれば、上の方が流れが速いので早く後端に着きます。翼の形状も、上が盛り上がっている必要は必ずしもありません。だって上が膨らんだ翼の形が必須条件ならば、背面飛行ができませんよね。思考実験で簡単に分かるこういう俗説が、なぜかまかり通っています。翼の上が膨らんでいるのは、そのほうが循環が大きくなるからです。
Y:実はこの「等時間通過説」に基づく説明は、最近出た航空力学の入門本にも載っていました…。
(世間にあふれる「間違った説明」と、松田先生による突っ込み、解説はこちら。ここからの説明もより専門的になされています)
松田:流速の上下の差を生むのは翼回りの空気の循環です。循環が発生するためには後縁部がとがった形で、クッタの条件を満たすことが必要になります。翼とは翼断面や迎角をうまく作ることで、翼に空気の循環を発生させる装置、と言えます。
Y:循環とおっしゃいますが、じゃ、風洞実験をして、煙を流すなどをすれば、翼の回りに渦が巻いているのが目に見えるのでしょうか?
松田:いいえ。
Y:えっ…。
循環はある。でも目には見えない!?
松田:「循環がある」と言われたら、誰だって「ほほう、じゃあ、翼の周りに空気がぐるぐる回る流れがあるんだな」と思うわけです。
Y:思いますね。まさしくそう考えていました。
松田:でも、それは違うのです。翼の上の流れと、下の流れの速度が異なる。ということは、そこに「(左向きに進む翼を想定すると)上には右、下には左に向かう空気の流れがある」と考えられる。つまり時計回りの循環があるとすれば、上では対気速度と循環の速度が足し合い、下では引き合うので、翼上面の空気の流れは速く、下面は遅くなるのです。対気速度に対して上では加算、下では減算されて、循環があるという説明がつく。
Y:「あるとすれば」ということは、実際にはない、ということですか。
松田:「循環」は、単に数学的な表現です。
Y:数学的な表現…。「ここに循環があると“仮定する”と、大変よく説明できるのです」とおっしゃっているように聞こえるんですが。
松田:そう、そういうことですよ。
Y:だとしたら、しつこいのですが、風洞の中で何かこう、煙とか微粒子でもばらまいてやればですよ、翼の周りをぐるぐる回るところが見えたりしないんでしょうか。
松田:それは見えるわけがありません。考えてみて下さい。飛行機が前に進んでいる状態で、翼の下で逆向きの空気の流れが生じるなんてことはありえませんよね。
Y:え? あ、そうか! 実際に循環があったとしても、逆向きの流れより前から来る空気の流れの方がずっと速いから、相殺されて「下が遅くなった」だけとしか見えないか…。
松田:その通りです。同様に、上の方は加算されて「速くなった」だけ、としか見えません。翼の周りの空気の流れを示す動画は「YouTube」にいくらでも上がっています。すべて「上が速くて、下が遅い」ことを示しています。翼の下面で逆流しているなどという事はありません。
Y:上が速くて下が遅い、見えるのはそれだけ。循環があると言っても、見えなければ信用しにくい。でも実際に起こっていることを説明しようとすると、見えなくても「そこに循環がある」と仮定せざるを得ない。うーん…。
松田:ああ、可視化できない、自分の目で見えないと、存在を信じられませんか。
Y:そういわれると中世の人みたいで恥ずかしいんですが、その通りです。
松田:可視化についていえば、磁力線は目に見えませんね。でも、磁力の存在は疑いますか?
Y:うーん…それは話をすり替えておられませんか。
目に見えない「循環」を、どうすれば理解できるか
松田:磁力線は、鉄粉を使うと可視化できますね。紙の上に鉄粉が線を描くと「なるほど、そういうものか」と腑に落ちる。翼の循環にも、これに似たものがあります。翼端渦です。
Y:NASAのフィルムなんですね。大型機が通り過ぎた後に、主翼の両端から大きな大気の渦が生じていることが、煙突からの煙によって可視化できる。
松田:これが翼の生む渦の中でもっとも大きい「翼端渦」ですね。さて、こちらもご覧になると、いろいろな翼の生む大気の渦が見られます。
Y:おお、本当に翼はくるくると渦を引いて飛んでいるんですね。
松田:翼が渦を生みながら前進していくので、つらなった渦に見えるわけです。
ちなみに、翼端渦を中心に空気中の水蒸気が凝結してできるのが、おなじみの飛行機雲です。渦の中心は気圧が低いので、断熱膨張が起こって温度が低下し、雲を作る。雨の日に着陸寸前の飛行機で、主翼のフラップの角などから、この種の飛行機雲が発生するのが見えます。
Y:えっ、そういうことだったんですか!?
松田:飛行機雲にはエンジンの燃焼ガス由来のものもあって、本当はそちらのほうが多いですけどね。
さて、翼端渦について説明しましょう。
翼が横方向に無限の長さを持っていれば(2次元モデルという)、空気の循環=渦は、左右に何処までも伸びる翼の周りをずっと回っているのでしょうが、現実には翼の長さは有限で、左右で切れますね。すると翼周りの循環を構成する渦は、両端からどこかに行かなければなりません。そうして出来るのが翼端渦です。この渦は翼端から出発して、ずっと後方に繋がっています。
松田:もっと具体的に言いましょうか。翼下面の空気の圧力は、上面の圧力よりも高い。そこで、翼の周りの渦を構成する大気は、左右の端で圧力の高い下面から、低い上面に回り込もうとします。ですから渦ができるのです。
そして飛行機は前進していますから、上に回り込もうとする空気の流れが翼から置いていかれ、渦状に残ってひきずられることになりますね。かくして、後ろから見て翼の左端からは時計回り、右端は反時計回りの空気の渦ができる。これが翼端渦です。
Y:翼端渦があるとどういう影響があるのですか?
松田:翼端で翼の上から下に向かう空気の流れが付加されるので、迎え角が減った事になり、揚力が減少します。
翼端渦の効果を抑えるために使われているのが「ウィングレット」です。翼の左右の端に小さな垂直翼をつけて、空気が下から上に回り込んでくるのを妨げるわけですね。ウィングレットをつけると翼が長くなったと同じ効果があります。翼が長いと、抵抗に対して揚力が増えます。つまり、抵抗が減った事と同じです。
翼端渦があると、なぜ翼の「循環」が証明できるのか?
Y:しかし、翼端渦があることは分かりましたけれど、それが、翼に空気の循環がある証明になるのですか。いまいち繋がらないんですけれど。
松田:たしかに、翼端渦は見えても、翼の周りの循環は渦としては見えませんものね。磁力線ほど腑に落ちる感じはしないでしょうね。
Y:分からないなりに理解したいと思います。ご教示頂ければと。
松田:やってみますか。ここで出てくるのが「ケルビンの渦(循環)定理」です。
(※丁寧に教えて頂きましたが、すみません、ここも力及ばず消化できませんでした…)
松田:……つまり、空間に初めに渦が無ければ、いつまでたっても無い。渦ができれば、それを打ち消す渦が必ずつながって生まれている、と考えてください。
Y:(涙目で)了解しました。空間では自然に渦が発生することはないし、渦が生まれたら反対向きの渦も必ず生じる、と。
松田:さて、飛行機が空港に止まっていて、対気速度がゼロのときは、揚力がゼロですから、循環もゼロです。翼端渦も生じません。
Y:なるほど。
松田:飛行機が迎え角を取ってスピードを上げはじめます。翼の形が後縁がとがった形になっているのでクッタ条件を満たす、そのために循環が発生します。
Y:飛行機が滑走を始めると、翼の周りに循環ができる。
松田:そして、滑走路には翼の周りの循環とは逆向きに流れる渦が残ります。これを「出発渦(starting vortex)」と言います。
Y:翼の循環が渦を作ったから、ケルビンの渦定理が求めるとおり、反対向きの渦ができたんですね。
松田:出発渦は動き出した飛行機の翼端渦につながっていて、理論上は飛行中の飛行機までつながっているんですよ。大気の動きで消されてしまうまで残っています。
Y:出発渦と飛行機の翼の循環が、翼端渦によって“つながって”いるのですか。
松田:そうです。そして、翼周りの渦と出発渦は回る向きが逆で、渦の大きさは足し合わせるとプラスマイナス0です。翼端渦も左右が逆回りですから、合計した渦の大きさは0です。
渦が生じたら、それを相殺する分、必ず反対方向の渦がつながっていなければなりません。この場合は翼の循環と、翼端渦、出発渦が反対巻きで対応するわけですね。
Y:へえ…。
方程式が完全に解けなくても「理解できる」と言える?
松田:大型旅客機が通った後、その出発渦や翼端渦に小型機が巻き込まれて墜落する事故が実際に起きていますし、これを避けるために、先発機の翼の生んだ渦が空気中から消えるまで、ある程度間隔を置いて離陸するのです。
Y:なるほど。「飛行機の翼と出発渦は、翼端渦を介してつながっている」ことが、ケルビンの定理によって、翼に渦、すなわち循環があることを証明している、という理解でよろしいでしょうか。
松田:そういう理解でいいと思います。誤解すると拙いので言っておくと、「翼の循環と出発渦が“つながっていることで”揚力が発生する」のではないですよ。翼が滑走路を動き始めるとクッタの条件が満たされて、出発渦が生まれ、それに対応して翼に空気の循環が生じ、揚力が発生する。翼とつながった出発渦は滑走路にそのまま残る。でも残してきた出発渦が消えても、揚力が失われるわけじゃありません。…まだ納得がいかない顔ですね(笑)。
Y:うーん、そうだ、飛行機の開発には、コンピュータシミュレーションで翼の周りの流れを計算するそうですね。ということは、翼の循環を計算する方程式があるということですよね。
松田:はい、「ナビエ・ストークスの方程式(Navier-Stokes equation)」ですね。
Y:これが完全に解ければ、揚力は分かるということになりますね。翼の周りの循環、それによる渦の形成、成長が計算できるそうですが、そのナビエ・ストークス方程式の一般解を出したら賞金が1億円もらえるとか。そのくらいこの方程式は難解で、まだ解かれていないと聞きました。
松田:それはそうですが、あなたが仰りたいのは、「方程式の一般解がわからないことを『分かった』と言っていいのか」ということですね?
Y:はい。どうなんでしょうか。
松田:ナビエ・ストークス方程式は粘性流体の運動を記述するものなんですが、一般解、つまり、どんな値でも解を導き出すことなんか、できっこないんですよ。
Y:解くために必要な変数がめちゃくちゃ多いとかそういうことですか。
松田:変数は多くない。難しいのは方程式が非線形だからです。
Y:非線形?
松田:要するに難しいという事です。
Y:そのためにコンピューターの計算能力があるのではないですか?
数学者の「分かる」と工学者の「分かる」
松田:それは仰るとおりで、最近はナビエ・ストークス方程式の数値解法の研究は非常に進んでいます。解き方にもいろいろあるんですけれど、代表的な方法は空間を網目に切る。その中で解を求める。問題はメッシュをどのくらい細かく切れるか、です。
翼の周りの流れに生まれる小さな乱れ、これを乱流と言います。難しいのは乱流です。乱流の渦を全部計算しようと思ったら、むちゃくちゃ細かい網目がいるんです。それは現在のスーパーコンピューターでもできないんですよ。だから、そこをモデル化しているんです。乱流理論、乱流モデルというものですね。シミュレーションも、そのモデルを入れた上で行います。
そういう意味では、文字通り完全に「飛行機がなぜ飛ぶか」をすべて理屈で説明できるかと言ったら、言い切れない部分は残っているんです。
Y:乱流をある程度モデル化した空間の中でなら説明できるけれど、現実を完全に再現できているかと突き詰められると、そこまでは言えない。
松田:だから、飛行機を作る際にはシミュレーションだけではなく、念のために実際にモデルを作って風洞実験をやります。しかし最近は数値シミュレーションでずいぶん詳しい事が分かります。数値計算と実際のモデルとでどのくらい揚力にズレがあるかといえば、1%そこそこなのですよ。
Y:うーん、ということは、方程式の一般解が分からなくても飛行機を飛ばす分には問題ないから、「分かった」といっても差し支えない?
松田:そこは、同じ科学者といっても工学者と数学者で「分かる」という認識に違いがある。工学者は「揚力の大きさが分かったからそれでよい」と言うでしょうし、それで正しい。一方数学者にすれば「そんなのは厳密解じゃない。いいかげんな」ということになるでしょう。それはそれで正しい。
数学者、あるいは「全てを疑え」という科学哲学者の目からすれば「飛行機が飛ぶ理由は、まだ完全に分かっていない部分がある」と見えるのかもしれませんが、工学者としては、計算と実験がほとんど合っているのですから「完全に分かっている」と言ってかまわないと私は思います。
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Y:いやはや、長い時間ありがとうございました。ここまでで分かったことをまとめてみようと思います。
Q:【飛行機はなぜ飛ぶか】
A:【飛行機の翼が空気の循環を発生させることで、揚力が生まれるから】
(循環の発生で翼の上面の気流が速くなり、下面は遅くなる。流速が速いほうが気圧が低くなり、翼は上に吸い上げられる。これは「ベルヌーイの定理」で説明できる。揚力は「(空気の)密度×(飛行機の)速度×(翼の)循環(※)」で計算できる。「クッタ・ジューコフスキーの定理」と呼ばれる)
※循環の単位についての説明は私の力量を遙かに超えますので、ご容赦ください
Q:【なぜ循環が発生するか】
A:【翼の後縁が尖っているので、翼の上下の流れがそこで滑らかに合流するから。(クッタの条件)】
Q:【目に見えない翼の「循環」が存在することをどう証明するか】
A:【目で見ることが出来る翼端渦、出発渦が、翼とつながっていることで証明できる(ケルビンの渦定理)】
Y:先生、おかげさまで急所が分かってきた気がするのですが、これ、ものすごく難しいです。出発渦の話まで子供に説明できるかと言われたら、絶対無理です。これじゃあ、先生がネットでこてんこてんにやっつけていた「間違った説明」をしたくなる理由も分からなくもないような。
松田:Yさん、間違った説明をわざとするのは嘘つきだし、知らずにするのはバカですよ。
Y:ぐはっ。
松田:とはいえ、確かに抽象的な思考を要求される、難しい話ではあるんです。
理系の専門家でも誤った仮説を信じ続けている
松田:神奈川工科大学教授の石綿良三先生がこうした「揚力」の説明がどうなっているかを調べられたのですが、一般書では「正しい16.2% 、 十分でない50.0% 、間違っている33.8%」、物理の教科書では「正しい61.0% 、 十分でない22.0%、間違っている17.1%」であったそうです。(「科学書に見られる間違った翼の原理の拡散」石綿、根本、山岸、荻野、日本機械学会講演論文集No. 138-1 (2013))
Y:あっ、むしろそこが分かりません。NASAまでが、ああいうフィルムを作って「世の中で広まっている説明は間違っているぞ」と啓蒙活動をやっているということは、揚力についての同じ誤解が洋の東西を問わずある、ということですよね。
松田:そういうことですね。
Y:なんで世界中でそんなことになるんですか。
松田:石綿先生にいわせれば、物理学者が反省もせずに言い続けているからだと。実際、僕がこの話をあるところでしたら、聞いていた物理の大家である某名誉教授が、「そんな話は初めて聞いた」と言うんですね。自分も「翼の上下の空気が同時に後端に着く」と習ったと。それで僕がある大学の講義のマクラに「困ったもんだね」とこの話をしたら、その後で学生が1人来て、「先ほど流体力学の講義を受けたんですけど、その先生はまさにその間違った理論を言っていましたよ」と。それでその先生が誰かと調べたら、私の大学での知人でした(笑)。
Y:笑い事じゃありません。揚力が誤解されているよりずっと深刻な話じゃないですか。もしかしたらですけど、「どうせ素人にクッタ条件とかいったって途中で寝てまうやろ、それならもうこのぐらいであしらっておけばええ」みたいに先生方が考えているんじゃないですか。
松田:いやいや、僕は違うと思います。要するに先生方が分かっていないということなんです。
Y:大学の先生がですか? 本当にまずいじゃないですか。
松田:僕が今書いている本の主題は実はそういうことで、「いかに大学教授がバカか」と。
Y:そんな(笑)。
松田:いやいや、もちろん全部とは言いません。そう言う人もいるということです。ところがそんな人は目立つのですよ。でもこれは本当に驚くべきことで、さっきの飛行機の話が典型だけど、…(以下、かなり信じがたい理系の教授たちのエピソードが続く)。
…一連のこういう人たちと付き合って僕が興味を持つのは、その個々の事実じゃなくて、人間という生き物の本性。そして僕は「松田の最終定理」を考えるに至りました。それは「人間には理性は無い」という定理です。
ちなみに第1定理は「人は自分の意見は主張する、相手の意見は聞かない」。第2定理、「サルは反省するが人間は反省しない」。要するに人間は理性で動いていないんです。
Y:反省するならサルでもできる、というやつですか(笑)。それにしても。
松田:この問題というのは実に根が深いのですよ。まあ、人間には理性がないと言ったらこれは言い過ぎですね。1割が理性で、残りの9割が感性なんです。
Y:私なんかはそうかもしれませんが、理系の大学の先生まで?
松田:ノーベル経済学賞を取ったダニエル・カーネマンをご存じですか?
Y:行動経済学の人ですか。『予想通りに不合理』の(※こちらYの知ったかぶりによる完全な勘違いでした。この本の著者はダン・アリエリーです。お詫びして訂正致します。表記は戒めとして残しておきます)。
松田:彼が出した本で、『Thinking Fast and Slow』というのがあります。
Y:あ、そのタイトルは聞いたことあります(邦訳『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』)。
『99.9%は仮説』の「つかみ」が効き過ぎた?
松田:単純化して言えば「fast thinking」というのは直感です。「slow thinking」というのは論理です。これを僕流に理性と感性と言いますと、人間は理性が1割で感性が9割だと私は思います。だから世の中の動きはだいたいこれで説明できる。あらゆることを感情が支配し、理性、論理を妨げる。
Y:私は、理科系の科学者こそ自分の感情に左右されず、信じていた仮説でも事実の前にはどんどん改めていくような人なんだ、と期待しちゃうんですけど、全然そんなことはないと?
松田:ないですね。まったく。これは知能、その人の思考能力とは関係ない。だって、大学教授になるような人は、入試を良い成績でパスしたはずですよね。頭は良いはずです。でも自信があるだけに思い込みも強い。それが、当人が「論理的」と思っているところにも影響するんだということです。だから、一度思いこんだ仮説を手放さないことも頻繁に起こる。
Y:うーん。
松田:仮説と言えば、Yさんが耳にされた「飛行機がなぜ飛ぶかが科学では分からない」という都市伝説は、おそらくサイエンスライターの竹内薫さんの『99.9%は仮説』(光文社新書)の影響だと思います。
Y:私も読んでみました。で、最後までちゃんと読むと「飛行機が飛ぶ仕組みについては、冒頭でかなり過激な発言をしましたが、漫才や落語の『つかみ』と同じで、わざと挑発的に書いたものです(腹が立った人がいたら、ごめんなさい!)」(以上本文ママ)と書かれているんですよね。
松田:私も竹内さんの書かれた別の文章を読んで「ああ、ちゃんと分かっている方だな」と思ったことがあります。本意は、「信じてきた常識、通説を疑い、すべては仮説であると考える姿勢を持て」、ということでしょうね。
Y:私もそう思います。頭を柔らかくしよう、という主張に大いに共感しました。しかし、「つかみ」だけぱっと飲み込んでしまう人が多くて、「飛行機が飛ぶ理由を科学は説明できない」という新たな「通説」が生まれてしまったのかも知れません。まして、説明するのがこんなに大変では、「やっぱり分かってないから、面倒くさいことを言って煙に巻いているんじゃない?」と言いたくなる気が…。
…先生、「飛行機が飛ぶ理由は科学では分からない」という話が流布した背景には「そうあって欲しい」という我々の思いがあるんじゃないですかね。
松田:といいますと?
Y:「自分に理解できないことが世の中の常識であってたまるか」という気分、自分では歯が立たない難解な科学が、実はたいしたことができないものであってほしい、「酸っぱい葡萄」のような気持ち、そういうものが、我々の中にあるんじゃないでしょうか。
松田:マイケル・シャーマー(※)というアメリカのSKEPTICS(スケプティックス、懐疑論者、無神論者)誌の編集長が、こういう例を言っておったのですよ。
(※サイエンスライター、疑似科学を批判的に研究するスケプティックス・ソサエティーを立ち上げた。TEDでの抱腹絶倒の講演はこちら)
人間は「科学は無力であって欲しい」と願っているのかも
「人間はバカだというけどそれは違う。バカはバカなりに合理的なのだ。これは遺伝的に組み込まれているんだ。2人の原始人が300万年前、アフリカのサバンナを歩いていたとしよう。そこに藪があった。前を通り掛かったら、ガサゴソという音がした。これがライオンか風なのか分からない。
それで1人はばっと逃げた。もう1人は合理主義者で、『これは風かもしれない。だったら逃げる必要はない。ちょっとテストしてみよう』と石を投げてみた。そうしたらライオンが出てきて食われてしまったと。だから、そういう合理主義者、理屈に従う人間は淘汰される。怖がって、理屈も何も無い、何でもいいからぱっと逃げるほうが生き残る」
これが「fast thinking」と「slow thinking」の辿る運命なんです(笑)。
Y:なるほど。
松田:じっくりと考える論理的思考というのは、これはギリシャとか、フランスの啓蒙主義から出てきたもので。
Y:生活に余裕が出来て生まれた「後付け」なわけですな。
松田:うん。人間にとって非常に不自然なことなんです。
Y:むしろ、下手に身につけると生存を脅かす可能性が高いものだった。
松田:そうそう。だからさっきのカーネマンは、「これを非合理といってくれるな」と。「限定合理性と言え」と。その根は、人間の本性に根差しているからね。
Y:どっちかというと、感情に流される方が人間らしい生き方的なのかもしれない。
松田:そう。だから科学とか合理主義とかいうのは、非常に非人間的なことなのですよ(笑)。飛行機が飛ぶ理由を分からないままにしておきたい気持ちと、つながっているのかもしれませんね。
『航空宇宙辞典 増補版』(地人書館)、『飛行機はなぜ飛ぶか』(近藤次郎著、講談社ブルーバックス)、『飛ぶ力学』(加藤寛一郎著、東京大学出版会)
※記事執筆、作図に当たってはこれらの書籍が大変参考になりました。なお後の2冊は「等時間通過説」を紹介しています。
(この記事は日経ビジネスオンラインに、2014年5月16日に掲載したものを再編集して転載したものです。記事中の肩書きやデータは記事公開日当時のものです。)
記事掲載当初、本文中で「大気速度」としていましたが、正しくは「対気速度」です。お詫びして訂正します。本文は修正済みです [2019/06/19 15:05]
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