音楽著作権をめぐる問題は、当欄でもこれまでに何回か取り上げている。

 この問題は、私が「テクニカルライター」という肩書きで、IT(当時はまだ「IT」という言葉は発明されていませんでしたが)まわりの原稿を書いていた1980年代から90年代にかけて、いくつかの媒体で記事化している。

 当時から私の立場はわりと一貫している。

 この20年ほど、私は、日本音楽著作権協会(=JASRAC。以下「ジャスラック」と表記します)が著作権使用料を要求する対象が拡大の一途をたどってきたことに、その都度
「行き過ぎじゃないか?」
「その要求は無理筋だと思うが」

 と、違和感ないしは疑義を表明してきた。

 もちろん、ジャスラックから回答なり反応なりが返ってきたことはない。
 私が一方的にいいがかりをつけてきただけの話だ。

 一時期は、「ジャスラック」という単語を自分の原稿の中に書く時に、必ず
「シャイロック、じゃなかったジャスラック」

 というふうに、わざと一度言い間違えてから言い直すメソッドを採用していた。

 ネタとしては「ベニスの商人」(シェイクスピア作)の中に出てくる、強欲な金貸しであるシャイロックとジャスラックの混同を狙ったセコいやり口なのだが、しばらくの間はそれなりに有効だったと思っている。

 余談だが、つい先日、安倍晋三首相が、参院選の選挙の応援演説の中で、
「民主党の、あ、すいません、民主党じゃなくて立憲民主党ですね。どんどん政党が変わるから分からなくなってしまいました。その立憲民主党の枝野さんは党首討論で…… ―略―」

 と、立憲民主党の枝野幸男氏について言及する際に、「民主党の」と言い間違えたあとに、あらためて訂正する内容の演説を繰り返しているというニュース が流れてきた。

 ハフポストがまとめたところによると、首相の「言い間違い演説」は、6日午後の滋賀県草津市での街頭演説で確認されてから後、翌7日は、千葉県内と東京都内で行った計6カ所すべての街頭演説で同じように反復されたのだそうだ。

 意外なところに「シャイロック、じゃなかった、ジャスラック」手法の追随者を発見したカタチだ。

 もちろん私は、安倍首相のスピーチライターに「故意の言い間違いによるダブルイメージ拡散手法」に関しての著作権使用料を請求するようなことはしない。なんとなれば、文化とは先人の優れた業績を踏まえたところから出発する何かで、その意味からして、自分の仕事が誰かに模倣されたと感じた時、怒りよりは、むしろ晴れがましさを感じるのが本当の人間だと考えるからだ。

 話を元に戻す。

 ジャスラックは、この30年ほどの間に、著作権使用料の請求先を、演奏家、歌手、レコードCDの制作者、放送、雑誌、新聞、書籍のような商業的なマスの媒体から、有線放送、飲食店の店内音楽、さらにはダンス教室、商店街のBGMに至るまでの、およそありとあらゆる個人に拡大してきている。加えて、彼らは、音楽がファイル化して流通するようになって以来、音楽ファイルが記録され得る媒体(つまり「想定し得るあらゆるすべての媒体」ということになる)に、音楽が乗せられることを想定して、CD-RやDVD-Rのような記憶媒体、ハードディスク、果てはスマホやパソコン本体にあらかじめ補償金を徴収するシステムの確立を画策していると言われる。

 いささか古いソースだが、リンク先の記事 にこのあたりのいきさつが詳しく紹介されている。

 さて、このたび、われらがシャイロック、じゃなかったジャスラックは、音楽教室に職員を潜入させることで教室内での音楽の扱われ方を調査する手段を採用した。

 リンク先の記事によれば
《―略― JASRAC側が東京地裁へ提出した陳述書によると、職員は2017年5月に東京・銀座のヤマハの教室を見学。その後、入会の手続きを取った。職業は「主婦」と伝え、翌月から19年2月まで、バイオリンの上級者向けコースで月に数回のレッスンを受け、成果を披露する発表会にも参加した。 ―略―》

 ということになっている。

 びっくり仰天だ。

 いったいいつの時代のゲシュタポのやりざまだろうか。

 でなければ、ずっと昔にある漫画で読んだ「柳生の草」(←ググってください)の現代版とでも考えたものなのだろうか。

 私は、民主的だと言われているわが国の戦後社会の中で60年以上生きてきた人間だが、これほどまでにあからさまなスパイ活動を堂々と敢行して恥じない組織が、自分たちの主張に耳を傾けてもらえると信じている姿を、いまはじめて見た気がしている。

 思うに、ジャスラックが潜入職員を立ててまで立証せんとしていたのは、

1.ヤマハの音楽教室では、「音楽」がまるでコンサート会場でそうされているように、生徒によって「鑑賞」され、「享受」され、金銭を媒介する手段として「流通している」

 ということなのだろう。

 というのも、ジャスラックとヤマハの間で争われている訴訟では、現在、教室内で演奏される音楽が、演奏技術を伝えるためのものなのか、それとも「鑑賞目的」なのかという点と、もう一つは、教室に通っている生徒が、営利目的で演奏を聴かせる対象としての「公衆」に当たるのかであるからだ。

 ちなみにヤマハとジャスラックが争っている訴訟の争点については、以下の記事 が詳しい。興味のある向きは熟読して内容を吟味してほしい。

 さて、潜入職員は、レッスンでの演奏の様子について、
「とても豪華に聞こえ、まるで演奏会の会場にいるような雰囲気を体感しました」と主張している。

 演奏を聴いていた生徒たちについては、「全身を耳にして講師の説明や模範演奏を聞いています」という言い方で描写している。

 つまり彼ら(ジャスラックとその潜入職員たちのことだが)は、レッスン時に試奏されている音楽が、「事実上コンサートの音楽として」流通しており、生徒たちも、「有料入場者たる聴衆に近い聴き方で」その音楽に向き合っているということを主張しているわけだ。

 なぜというに、彼らの側の理屈からすれば、作曲者の存在が明示的に共有されている特定の楽曲が、金銭の授受を伴う音楽として流通しているのだとすると、そこには当然、著作権使用料が発生するはずだという理屈になるからだ。

 さてしかし、音楽教室の側の立場からすれば、講師が全力を尽くして最高の演奏を披露しようとするのは、教育者として当然の姿勢だ。

 というよりも、どんな分野であれ、他人に何かを教える人間が、全身全霊でその任に力を尽くすのは、「教育」という行為の大前提だ。

 同様の理路から、生徒が「全身を耳にして模範演奏を聞く」態度も、同じく、音楽を学ぼうとする人間としての最も基本的な態度だ。

 というよりも、そもそも教える側がぞんざいな演奏をしていたり、学ぼうとする側が、いいかげんな態度で聞いていたのでは演奏技術はもとより、「音楽」のエッセンスそのものが伝わらない。

 野球でもフィギュアスケートでも、コーチは全力の模範演技を見せて、生徒に競技の真髄を伝えようとする。

 「鑑賞」のうえ拍手をしてもらいたいからではない。八分の力で投げるピッチングフォームや、3回転から2回転にグレードダウンした模範演技では、伝えようとするところの最も大切なスキルやテクニックが伝わらないからでもあれば、100パーセントの集中をもって競技に臨まない態度は、故障につながりかねないからだ。

 山岳警備隊のトレーニングがザイルの代わりにビニール紐を代用として敢行できるはずもなければ、料亭の板前が発泡スチロールを切り刻むことで包丁さばきを学ぶわけにもいかない。音楽を学び伝えるためには、本物の音楽を、本気の集中力でやりとりしなければならない。あたりまえの話ではないか。

 おそらく、ジャスラックは、「教育目的で音楽が演奏されている」場所に、著作権使用料が発生していない現状が不満で訴訟を起こしたのだろう。

 彼らにしてみれば、
「教育目的、レッスン目的であれ、一定数の聴衆が音楽を聴き、その人々に向けて、楽曲が演奏されている事実は変わらない。だとすれば、教育という隠れ蓑の裏で、やりとりされている闇流通の音楽に対してもわれわれは支払いを要求する」

 てなところなのだろう。

 しかし、そもそも、生徒たちは、レッスン用の楽曲を演奏するために、楽譜を購入している。その楽譜の出版にあたっては、すでに著作権使用料が支払われている。さらに生徒たちは、必要に応じてプロの演奏家が録音した楽曲のファイルなりCDなりを買っている。これらの音源についても当然のことながら著作権使用料がのせられている。

 その上、教室内で鳴っている講師の演奏についても、別途レッスン料の中からジャスラックに金銭を徴収されねばならないというのだろうか。

 理屈の話をすれば、もっと細かい話だってできる。

 もっとも、ジャスラックの側からも、別の論点からの違った細かい話が出てくるだろうとは思う。

 ただ、今回の報道で私がなによりも衝撃を受けたのは、音楽教室に潜入捜査員を送り込んで訴訟のための資料を収集しようとしたジャスラックの、その取り組み方の異様さに対してだ。

 ジャスラックは、何と戦っているのだろうか。
 彼らは、自分たちが音楽そのものを敵にまわしはじめていることに、気づいていないのだろうか。

 ヤマハは、日本にはじめて西洋の音楽が入ってきた時代から、一貫して、楽器を作り、楽譜を出版し、音楽教室を展開し、音楽ホールを設計し、レコードやCDを制作し、コンサートを企画し、新人の音楽家を発掘してきた企業だ。

 もちろん、彼らとて営利企業である限りにおいて、音楽をカネに変える活動をしてきていると言えばそうも言えるだろう。しかし、総体として、ヤマハが音楽の普及と発展のために力を尽くしてきた企業であることについて、異論を唱える日本人はほとんどいないはずだ。

 引き比べて、ジャスラックは音楽の普及や音楽家の育成にほんの少しでも貢献してきたのだろうか。

 私は疑問に思っている。

 彼らは、音楽家の権利を守ると言っている。

 しかし、音楽家の中にも、自分たちの権利を守ってくれている団体であるのかどうかについて疑問を持っている人々がたくさんいる。

 この話はまた別の議論になるので、ここでは深く追究しない。

 ただ、私は、今回、

 私の目から見て、ジャスラックのような組織が、ヤマハのような企業を相手に、音楽の「正義」を主張している姿は、なにかの皮肉であるようにしか見えない。

 訴訟で争われている事例では、音楽講師と生徒が「美女と野獣」という楽曲を交互に演奏したことになっている。

 で、その演奏と鑑賞の相互作用の中に音楽著作権を不当に侵害する行為が含まれていたのかどうかが争われているわけなのだが、仮に「美女と野獣」という個別の楽曲に含まれる作曲者の意図や工夫が、音楽講師の卓越した演奏を通じて、生徒に伝えられていたのだとして、「音楽を学ぶ」という文脈から見れば、教える者から教わる者に伝えられているのは、単独の著作者による個別の楽曲の細部ではなくて、「音楽そのもの」とでも言うべき技法なり演奏術なりの真髄であるはずだ。

 私自身、子供の頃にピアノ教室に通って、バイエルだのブルグミュラーだのの楽譜をただただ機械的に再現するためのレッスンに苦しんだ記憶を持っている。

 ただ、その苦しいレッスンの抑圧的な記憶はともかく、私の身体の中には、わずかながら「音楽そのもの」が伝えられている。それは、特定の作曲家の個別の作品とは別のものだ。その、もっと普遍的な「音楽なるもの」を伝え、再現し、楽しむために、われわれは、楽器を発明し、楽譜を書き、レコードを回し、ストリーミング配信のための環境を整えている。そこにおける主役はあくまでも「音楽そのもの」であって、「特定の楽曲に含有されている誰かの権利」みたいなみみっちいものではない。

 音楽は、そうやって人から人に伝えられていくものだ。

 カネや著作権は、そうした音楽の流れの周辺に発生するノイズにすぎない。

 ジャスラックは、人が人に音楽を教えている現場にスパイを送り込んだ。このことは、同時に、人が人から何かを学び取ろうとしている場所に、悪意の観察者を紛れ込ませたということでもある。

 これはとても罪深いことだ。

 そのスパイ行為を通じて、彼らがどんな情報を収集しようとしていたのかということとは別に、身分を偽った訴訟相手の手先による情報収集というそのやりざまのあまりといえばあまりな醜さが、音楽そのものを根本的な次元で台無しにしてしまっている。

 音楽から何かを取り出すために、音楽そのものを殺してしまっては元も子もないと思うのだが、ジャスラックはまさにそれをやろうとしている。私にはそのようにしか見えない。

 たとえばの話、おたまじゃくしをつかまえたいと思った子供がいたのだとして、私は、あの可憐な生き物を自分の手の中の小さな池で泳がせてみたいと考える童心を、責めようとは思わない。

 でも、その子供が、おたまじゃくしをつかまえるために、春の小川にガソリンを流し込んで火をつけたのだとしたら、私は、その子供の行為を決して容認しないだろう。

 問題は意図ではない。どんな崇高な意図(音楽を守りたい)に基づいているのだとしても、それを実現するための手段が破壊的であったら、何の意味もない。

 野の花を摘むための手段がブルドーザーだったら押し花も恋文も無効になる。当然だ。

 シャイロックは、生きている人間から心臓だけを取り出すことができると考えた男だった。

 ジャスラックは、空気の中を流れている音楽から著作権だけを取り出すことができると考えているのだろうか。

 抽象的な話になってしまった。結論は無い。各自考えてください。

 私の子供時代のピアノの先生は、今年の3月に90歳で亡くなった。

 レッスン自体にはあまり良い思い出はないのだが、私の中に根付いたいくばくかのものをもたらしてくれた先生の貢献にはいまでも感謝している。ご冥福をお祈りしたい。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

小田嶋隆×岡康道×清野由美のゆるっと鼎談
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 「最近も、『よっ、若手』って言われたんだけど、俺、もう60なんだよね……」
 「人間ってさ、50歳を越えたらもう、『半分うつ』だと思った方がいいんだよ」

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 でも、焦ってはいけません。
 不安の正体は何なのか、それを知ることが先決です。
 それには、気心の知れた友人と対話することが一番。

 「ア・ピース・オブ・警句」連載中の人気コラムニスト、小田嶋隆。電通を飛び出して広告クリエイティブ制作会社「TUGBORT(タグボート)」を作ったクリエイティブディレクター、岡康道。二人は高校の同級生です。

 同じ時代を過ごし、人生にとって最も苦しい「五十路」を越えてきた人生の達人二人と、切れ者女子ジャーナリスト、清野由美による愛のツッコミ。三人の会話は、懐かしのテレビ番組や音楽、学生時代のおバカな思い出などを切り口に、いつの間にか人生の諸問題の深淵に迫ります。絵本『築地市場』で第63回産経児童出版文化賞大賞を受賞した、モリナガ・ヨウ氏のイラストも楽しい。

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