令和に入り、早くも凄惨な事件や、社会の分断を加速するような論争が立て続けに起こっている。SNSを開けば、目に入ってくるのは怒りと憎しみの応酬ばかり……そうした状況に、嫌気がさしている人も多いのではないだろうか。
インターネット上で活発な情報発信を行う、文筆家の御田寺圭さんと経営者のハヤカワ五味さんは、思想的立場こそ異なるが、そうした「感情」に突き動かされるネット世論の現状に対して共通の危機感を抱いている。SNS時代の論客が、すべてのネットユーザーに提案したいこととは――。
(写真/岡田康且)
誰もが「怒りの矛先」を探している
御田寺 私はインターネットを主な執筆の場にしていて、noteやこの「現代ビジネス」で書いているんですが、最近はネット上に常に「怒り」が充満しているのに疲れてしまって、SNSも必要なとき以外はあまり見ないようにしています。みんな毎日「怒るための対象を探している」ように見えます。
ハヤカワ この数年でSNSのユーザー層がかなり広がって、そのぶん議論の規模とか世の中への影響力が、よくもわるくも大きくなりましたね。
そうした中で、ネット上の雰囲気が「自分が傷つけられたと感じたら、相手をコテンパンにして社会から退場させても構わない」というようなものになってきたことに疑問を感じ始めていました。Twitterもいつの間にかネットリンチまがいの殺伐とした場所になってしまったような気がして、私も疲れたので、一時期距離を置いていました。
御田寺 ついこのあいだまでのネットって、もちろんリスクはあるけれど、基本的には「大きな可能性が広がる世界」というイメージでした。普通なら出会えないような人と出会えたり、遠くの人とでも意見交換できたり。
ハヤカワさんの場合は経営者としてSNSを活用してビジネスチャンスやマーケットを広げているし、クラウドファンディングもされていますよね。そういうポジティブな側面もたくさんありました。
ハヤカワ 私の場合は18歳で起業したんですが、中学生や高校生の間に、ネットで学校の外の広い世界や、いろんな人の価値観を知ることができたのが起業の大きなきっかけでした。狭いコミュニティを超えて多様な価値観や情報に触れられることが、ネットの特徴であり魅力だと思います。

でも、もしかすると、私たちの育った時代はネットで「触れないほうがいいもの」には触れずに済んだ、幸せな時代だったのかもしれないと最近は思います。
御田寺 かつて影響力が大きかった「2ちゃんねる」も、基本的には各掲示板がクラスタリングされていてバラバラでしたし、お互いの声は分断されて届きようがなかった。それが現在のTwitterでは、「界隈」などで一応は凝集していても、仕様的にどうしても他の「界隈」の声が漏れ聞こえてくるから、ときに「こんなけしからんことを言っている奴らがいるのか」と、カッとなってしまう。
Twitterをはじめ、急速に普及したSNSによって、普通に暮らしていれば一生知らずにいた人や価値観に触れる機会が増えました。新しい知見を広げてくれるものもありましたが、なかには自分にとって不快・不愉快で、まったく相容れないような言説もあるでしょう。
ハヤカワ ネットが痛みや苦しみを分かち合って、心を癒やしたり活力を生むだけじゃなくて「あなたを苦しめる悪と戦おう」という闘争的な人がたくさん入ってくる場所になったようにも感じます。そういう人は、良かれと思ってそのように言ってくれているのかもしれませんが。
御田寺 学校や会社でつらい思いをしている人が、同じような苦しみを抱えている人をネットで見つけて、「ひとりじゃないんだ」と孤独を癒すのはよいことです。ある時点までSNSは、頑張ろうね、しんどいね、でもこんなよいことがあったよ、みたいな「ゆるやかな共感」がメインだと思われていた。しかしいまでは、「いかに大きな共感を得るか」だけが重要視されて、ときに巨大な「負の感情の波」を生み出してしまうこともある。

ゆえにハヤカワさんがnoteで書いていた「傷つきたくない文化圏」という概念は、まさにいまのネット社会を的確に評しているように思います。「傷ついている私たちは被害者であり、どこかに加害者がいるはずだ。加害者を見つけて制裁しろ」という流れが至るところで生じている。近頃のTwitterでは「悪者・加害者探し」をしている人を見ない日の方が珍しくなっています。
ハヤカワ 確かに御田寺さんが言うように、「悲しい」「つらい」「寂しい」といった個人の感情が、ただの感情ではなく「被害」であると捉えられるようになったのは、すごく大きな変化ですね。
もちろん本当に被害を受けている人もいるけれども、その一方では個人の主観だけで悲しさや辛さも含めた何でもが「被害」だと言えてしまう危険性もあるし、実際は特定の誰かが悪いわけではなくとも「加害者がいる」という話になる。そういう一線を越えるタイミングが、この数年間で訪れてしまったのかもしれません。
政治家や有名人の発言を「失言だ」といってバッシングする時も、よくよくその人の意見を読んでみるとさほど問題ないのに、なかば意図的に誤読して「悪」と認定するようなケースもありますよね。事実を無視して、とにかく自分たちのコミュニティの中で意見が一致していればいい、というのはどうかと私も思います。
共感で「悪者」を決める社会
御田寺 共感は「是々非々で考える」ことを難しくします。仲間が「怒り」や「被害」の意識で堅く結びついている時に、「加害者」とされた対象をきちんと精査して「いや、この人って本当に悪なの?」と言うのは勇気が要ります。
ハヤカワ たとえば、私自身フェミニストを公言していますが、少なくとも今のネットにおける「フェミニズム」の異論を差し挟めないような雰囲気に関しては、疑問を持つようになりました。
もちろん私の周囲にもフェミニストの女性が多いのですが、センセーショナルで悪意のある記事見出しを見て怒っているような人には一度落ち着いて話し合おうよ! と思うときもありますし、そのような悪意ある編集によって扇動を行うメディアには意見していきたいと思っています。また、一見異なる視点の意見や批判もきちんと受け止めて乗り越えられないと、広がらないし、継続性も低いのかなと思います。
御田寺 議論をする際の作法として、よく「意見と人格は分けて考えろ」と言われますが、その人の主張が当事者性に依拠する場合、これがとても難しくなります。なぜなら、あくまで主張に対する批判であったとしても、主張が人格や経験に基づくものであれば、人格や経験そのものの否定・批判に接続されてしまうため、それ自体が攻撃や加害に見えてしまうからです。
少なくともSNSにおけるフェミニズムの雰囲気には「傷つきたくない文化圏」を感じます。向けられた批判が自分たちの怒りや苦しみを否定したり無化したりするものだと思ってしまうから、批判に対して「また私たちを傷つけるつもりか! 許さない!」という反応になってしまう。もちろんこれはフェミニズムに限ったことではないでしょうけれど。

ハヤカワ いろんな界隈で、同じようなことは起きているような気がしますね。でも、いま世の中がそういうふうに感情で溢れる状況に至ったことも、ある意味で正しいというか、必然なんじゃないか、と思う部分もあります。つまり、感情をほんとうに理性や論理で乗り越えるべきなのか、という見方も成立すると思うんですよね。
御田寺 特に心配なのは、世間が市民感情で「悪」を設定しこれを吊るし上げる「人治主義」にどんどん進んでいるように見えることです。みんながひとしく「怒り」を向けられるような「悪」が毎日のように探し出されている。「怒り」がネット上で一番ホットな商品、一番盛り上がるエンタメになっている現状を、なんとか変えないといけないんじゃないでしょうか。
「怒り」がSNSを荒廃させた
ハヤカワ 印象論ではありますが、真面目な人のほうが、ネット上で傷ついているように見えます。というのも、飛び交う意見や誹謗中傷のひとつひとつの向こう側に、ちゃんと誰か人間がいると思って対応するから、受け止めきれなくなってしまうからです。
悲観的かもしれませんが、いまみたいな状況が行き着くと、最終的には「もうSNSには、ちゃんとした人は残ってないよ」という認識に変わっていくのかもしれません。そこからまた別のSNSに移るのか、SNSそのものが廃れてゆくのかはわかりませんが。
御田寺 重要なご指摘だと思います。最近のネット社会は、だれもが大切な情報や有益なチャンスにアクセスできるように見えて、実際はクローズドな場所にチャンスやリソースや情報を囲い込み始めている。ちゃんと「話が通じる」人の間だけでこっそり回し合って、オープンな場所には漏らさない。だれもがアクセスできる場所には、だれも大切なことを発信しなくなった。「怒り」がまるで悪貨となって、良貨を駆逐してしまったかのように見えます。
ハヤカワ ライターや経営者に、SNSから有料のnoteとかサロンに移行する人が増えているのも、そういう流れの表れなんでしょうね。実際、コンテンツを有料にすると、誹謗中傷の類はまず現れなくなりますから、私も最近は有料コンテンツに引きこもりがちです。
初期のSNSは、何かすごく好きなものがあるとか、何かためになることを発信したいという人が多くて、「怒り」のようなネガティブな感情が主流なコンテンツにはならなかった。多くの人にSNSが普及して参加者が増えるほど、一番手っ取り早く共通項になるのはネガティブな感情だ、ということになってしまったのではないでしょうか。

御田寺 「共感」そのものは感情的にニュートラルで、その触媒はポジティブ・ネガティブどちらでもありえるのですが、世の中にはポジティブな話題よりもネガティブな話題のほうが多く出回っている、というのもあるでしょうね。
ハヤカワ でも結局、「怒り」で共感を広めてお互いを潰し合うことがみんなの求めるものなのであれば、やっぱり私のようにそれにストレスを感じてしまう人間は、SNSから距離を置くしかないのかな、と思います。
共感の「大切さと限界」を知る
御田寺 今日この対談で重要なのは、フェミニストのハヤカワさんと、ネットのフェミニスト界隈からは「アンチフェミニストの代表のひとり」とされる私が、同じような危機感を持つくらいには「今のネットの状況はまずい」と考えていることだと思います。
「人間は共感が高まったときほど分析的思考が弱くなる」という研究があります。残念ながら私たちは生来、共感と論理を両立させるのが苦手な生き物なので、そこをわきまえることが、ネットやSNSとの上手な付き合い方のカギかもしれません。

ハヤカワ 感情が先走って論理的思考やファクトチェックがおろそかになる例は、オピニオンリーダーになっているような著名な方でさえよく見ます。
ただしそれには理由があると思います。というのも、社会運動などではまずは感情を表面に出し声を上げて、世の中に問題を認知してもらう段階があって、その次に解決法を考えたり仕組み化する段階があるからです。御田寺さんが言うような「共感と論理を両立させる」意識が必要なのは、どちらかというと後者の、仕組み化する時とかソリューションを考える時なんじゃないかと思うんです。
当事者たちの問題がいまどのフェーズにあるかの認識がすれ違っていて、例えば御田寺さんがフェミニストの「ネガティブな共感」に対して「女性の地位に関しては、もう十分に社会問題化してるじゃん」と感じていても、感情的に声を上げている側の人は、まだ不十分だと考えている可能性もあるんじゃないでしょうか。
御田寺 たしかに、主観的な苦しみを訴えている人に対して「あなたの主張は客観的には矛盾している」などと批判したところで、「そうか、間違っていましたか」とはならないし、むしろかえって反発を生むでしょうね。
ハヤカワ 私はどちらかというと、男女どちらも性別でレッテルを貼られないような仕組みづくりや、50年後100年後によりよい社会を作るには何をすればいいか、といったことにより関心があるのですが、それは目の前の問題に苦しんでいる人から見れば、いまある不平等や不公正を解決するのが先でしょ?となる。フェミニズムの中にさえ、そういうフェーズの違いはありますから。
いまの世の中でさえ、声を上げられない人は本当に多いですから。だから、まずは私にもひとこと言わせてほしい、その後でロジックに行ってくれ、という気持ちを持っている人も多いかもしれないということは、想像しておきたいところです。
御田寺 声を上げづらい人も発信できる、実社会ではかき消されるくらいの小さな声を拾えるというのは、政治的な文脈を抜きにして、とても大事なことだと思います。それがインターネットの本来の良さだったはずですし。ですが、それを加害者/被害者の分断や闘争に結びつけず、どうしたら建設的なほうに導けるのか……。
立場が違うハヤカワさんに今日一番お聞きしたかったのはこのことです。意見が対立する相手を反射的に「敵」とか「悪」と考えてしまうことをやめるための筋道はあるのでしょうか。
意見が違うという「多様性」を信じる
ハヤカワ 自分の見知っている狭い範囲の常識を、世間の常識と思っている人が増えているようにも感じます。たとえば大都市で暮らしている人には、「日本には貧困なんてないでしょ」と本気で思っている人も少なくない。想像できないんですよね。
でも、私と同世代にも、生活保護を受けている人もいれば、少子化と言われる中、20代で子供を3人育てているという人もいます。「多様性」という言葉は最近よく耳にしますが、「多様性」と一口で言っても、想像する光景が人によって全然違う。やっぱりそれではすれ違うのも当然だし、前提が違う中で議論するから、お互い納得がいかない。
私が御田寺さんの本や意見を積極的に読んでいるのも、自分の意見とは相容れない部分があるからです。だからこそ批判として意味があるし、発見がある。意見が違うことも多様性のひとつです。多様な意見があるからこそ、自分が何に気づいていなかったか、どんな人に対して配慮が足りなかったか、気づくことがあります。
御田寺 ですが、それが意識的にできる人はかなり少ないですよね。自分と意見を同じくする人びとから論敵とみなされている人とか、あるいは世間からバッシングを受けている人の意見にあえて耳を貸そうとすることは勇気が要ります。しかしそういうバランス感覚を持つ人を一人でも増やすしかないとも思います。
感情と分析的な考え方をバランスよく両立できるようなふるまい――アクセルとブレーキを適度に使い分けながら運転するような感覚とでも喩えましょうか。これをみんなが持てるようになればいいなと。もちろん私自身がいつだって十分にできているとも思わないので、自戒を込めてですが。
ハヤカワ 感情のあり方は時代背景によっても移ろうものですよね。そういう不安定なものだからこそ大切にしなきゃいけないし、議論の出発点としては重要です。ですが、あらゆる局面において感情を優先して社会の仕組みを変えようとしたり、誰かに罰や制裁を与えるための根拠にしてしまうのは危うさを感じます。
御田寺 私にとってもハヤカワさんのような人の意見はブレーキですし、私がハヤカワさんにとってのブレーキになっているなら光栄です。立場や意見が違っても、たまにお互いの考えに耳を傾けて安全運転ができるなら、それに越したことはない。世の中全員が、同じタイミング、同じ方向でアクセルをベタ踏みする必要はありません。
多様性とは、自分のなかにブレーキを見つけていくことかもしれない。みんなで気持ちよくアクセルを吹かしているときにブレーキを踏むのは勇気が要りますが、踏まなければいつか事故を起こす――そういう気持ちでネットやSNSを使っていきませんか?と呼びかけていくのが、自分たちに大切な出会いやチャンスを与えてくれたインターネットにできる恩返しなのかもしれない、と最近は考えています。