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「希少なダイヤモンド」という幻想はどのようにして作り上げられていったのか?

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アメリカの調査報道ジャーナリストでマサチューセッツ工科大学の政治学教授でもあったエドワード・J・エプスタイン氏は、「ダイヤモンドの『発明』とは、ダイヤモンドは希少で価値があるというアイデアの創造」だと形容しました。そんなエプスタイン氏が、19世紀のダイヤモンド鉱山発見から巨大カルテルの隆盛に至るまでの、ダイヤモンドのきらびやかな歴史をつづっています。

Have You Ever Tried to Sell a Diamond? - The Atlantic
https://www.theatlantic.com/magazine/archive/1982/02/have-you-ever-tried-to-sell-a-diamond/304575/

19世紀半ばまで、ダイヤモンドはインドの河川から砂金のように採取するか、ブラジルのジャングルに閉ざされた鉱床から少しずつ採掘するしかなかったため、世界全体の年間ダイヤモンド生産量は数kg程度でした。しかし、南アフリカで大規模なダイヤモンド鉱山が発見されるようになると、宝石市場はダイヤモンドであふれかえるようになります。

このころ、後に「アフリカのナポレオン」と呼ばれることになるイギリス人政治家のセシル・ローズが保有していたダイヤモンド採掘会社のデビアス鉱業会社は、ロスチャイルド家からの資金を得てもう1つの鉱山会社と合併し、1888年にデビアス合同鉱山会社となりました。これが、後に世界中のダイヤモンドを支配するデビアスグループの歴史の始まりです。

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自分たちが産出したダイヤモンドが市場を席巻するようになると、デビアスやデビアスの投資家たちは自分たちのビジネスが近い内に立ちゆかなくなることを悟りました。ダイヤモンドの本質的な価値はその希少性にあったため、ダイヤモンドが大量に出回れば価格が暴落してしまうからです。そのため、デビアスはカルテルを形成して市場を独占し、世に出回るダイヤモンドの量を抑える戦略を取るようになりました。

こうして着々と宝石市場の支配を進めたデビアスですが、1930年代には頭打ちを迎えるようになりました。当時、主要な宝石市場だったヨーロッパは世界恐慌の真っただ中にあったためです。また、ダイヤモンドは「貴族が持つもの」と認識されており、庶民には見向きもされていなかったことも要因のひとつです。

そんな中、デビアスの事実上のトップだったアーネスト・オッペンハイマーの息子ハリーは、1938年に旅行先のニューヨークでジェラルド・ラックという男性と出会います。アメリカ最古の大手広告代理店とも評されるN.W.Ayer and Sonの社長であるラックとの出会いは、後にデビアスの運命を大きく変えることになりました。

ダイヤモンド事業の立て直しを請け負うことになったラックは、長期的なイメージ戦略を軸にしたAyer計画を打ち出します。Ayer計画では、まず手始めにイギリス王室の夫婦らにダイヤモンドを献上し、ダイヤモンドとロマンチックな魅力を結び付けようと努めました。また、ピカソダリなどの絵画を使用した広告を雑誌に掲載し、ダイヤモンドは巨匠らの絵画のようにユニークな芸術作品だというイメージを一般大衆に刷り込ませようとしました。

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さらに、N.W.Ayer and Sonは当時は新しい娯楽だった映画を積極的に活用し、ハリウッドスターにダイヤモンドを身に着けさせてその魅力をアピールしました。こうしたブランド戦略は、一般大衆に「成功者のロールモデル」を浸透させることを主眼としたものでした。N.W.Ayer and Sonが1948年に作成した内部資料には「銀幕と舞台のスターにダイヤモンドの宣伝をさせて、政治家の妻子から食料品店経営者の妻や自動車整備士の恋人までに『彼女と同じものが欲しい』と思わせましょう」と記載されています。こうした広報戦略が奏功した結果、アメリカにおけるダイヤモンドのセールスは1938年から1941年にかけて55%以上も増加し、それまでの低迷を一気に覆しました。

そんな中、ダイヤモンドに恋と伝統を兼ね備えたイメージを持たせる方法を模索していたN.W.Ayer and Sonは、新婚旅行中のカップルをイメージした写真の下に「A Diamond Is Forever」という一文を添えた広告を打ち出しました。これこそ、後にデビアスのみならずダイヤモンドそのものを象徴するスローガンとなった「ダイヤモンドは永遠の輝き」というフレーズです。実際には砕けたり、欠けたり、変色したりするダイヤモンドを永遠の愛の象徴に仕立て上げることで、デビアスはダイヤモンドを転売されず値崩れもしない商品にすることに成功します。

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アメリカ市場を手中に収めたデビアスは、世界各国の宝石市場に目を向け始めました。中でも、デビアスが特に顕著な成功を収めたのが、第二次世界大戦後の日本です。1959年まで、ダイヤモンドは法規制により日本の一般的な市場に出回ってすらいませんでした。そんな中、世界各国に子会社を持つ広告代理店J. Walter Thompsonと組んだデビアスは、「給料の3カ月分」というスローガンとともに、日本市場に徹底的な売り込みを仕掛けます。「西洋人のファッションに身を包んだ女性が、スマートな男性とともにレジャーを楽しむ」という広報戦略の狙いは、当時はお見合いで結婚し、伝統でがんじがらめになっていた日本の女性たちを、近代化とロマンスに夢中にさせることにありました。

キャンペーンは大成功し、1967年には結婚した人の5%しかダイヤモンドの結婚指輪を手にしてなかったのが、1972年には27%に急伸。1978年には結婚する女性の半分がダイヤモンドを受け取るようになりました。最終的に、日本市場はダイヤモンドの婚約指輪のセールスで、アメリカに次ぐ2番目の市場へと成長を遂げることになります。


その後も世界各地でダイヤモンドを売り続け、長きにわたりダイヤモンド業界を牛耳ってきたデビアスですが、その栄華は永遠には続かないとエプスタイン氏は予見しています。1980年代に、デビアスの支配が及ばないオーストラリア産ダイヤモンドが市場に流入するようになったことを背景に、エプスタイン氏は「デビアスの腕利きのマネージャーが、市場のコントロールを取り戻すすべを見つけることができなければ、いずれダイヤモンドの価値は崩壊し、かつては貴重なものだった小さな石として記憶されるようになるでしょう」と述べました。

実際に、近年に入りデビアスの苦戦が特に鮮明になっていることが取り沙汰されるようになっています。

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in メモ, Posted by log1l_ks

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