傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

セフレですよ、不倫ですよ、ねえ、最低でしょ

 仕事の都合で別の業種の女性と幾度か会った。弊社の人間が、と彼女は言った。弊社の人間が幾人かマキノさんをお呼びしたいというので、飲み会にいらしてください。

 私は出かけていった。私は知らない人にかこまれるのが嫌いではない。知らない人は意味のわからないことをするのでその意味を考えると少し楽しいし、「世の中にはいろいろな人がいる」と思うとなんだか安心する。たいていはその場かぎりだから気も楽だし。

 彼らは声と身振りが大きく、話しぶりが流暢で、たいそう親しい者同士みたいな雰囲気を醸し出していた。私を連れてきた女性はあっというまにその場にすっぽりはまりこんだ。私は感心した。彼女は私とふたりのときには同僚たちに対していささかの冷淡さを感じさせる話しかたをしていた。

 どちらがほんとうということもあるまい。さっとなじんで、ぱっと出る。そういうことができるのである。人に向ける顔にバリエーションがあるのだ。私は自分用と親しい人用のほかには一個しか手持ちの顔がないので、いっぱいある人を見るとリッチだねえと思う。それをほしいとは思わないが。

 彼らは私の仕事に関係する話を少しして、それから、どうですか景気は、というような話をした。彼らはゲストである私と私の所属している企業をほめた。堅実で、とか、実績がおありで、とか、世の中は実はそういう人たちが動かしているんですよ、とか。私はハイとイイエの間くらいの感じで首を動かしていた。それで「男の人たちのネクタイが太いなあ。うちの会社にはあんなネクタイの人はひとりもいないよなあ」とか思っていた。

 やがて彼らはあけすけな色恋の話をはじめた。ずいぶんと具体的な描写をしては私の顔を見るのだった。こいつクズなんですよ、と別の誰かが言った。こいつセフレ二人いるんですよ。私は少し驚いた。クズとはなんだ。性愛は自由である。相手が二人いても三人いても百人いても当事者の自由だ。当事者間の合意がある関係を罵倒する理由はない。

 そんなのは自由です、クズではないですよ、と私は言った。すると彼らは喉の上のほうから出す声でひときわ強く笑った。そして仲間うちでやいやい言い合ったあと、私に向き直り、いやこいつのほうが最低です、と別の人をさした。不倫常習者ですからね。私は今度は驚かなかったけれど、やはり同じようなことを言った。それは民事なので、他人がジャッジすることではないです。

 おい、おまえ、不倫相手、今ので何人目だよ。いや、あの、うち、女子もたいがいですから、男だけじゃないです最低なのは。な、そこの肉食女子。えー、わたしなんかぜんぜんたいしたことないです。

 私は彼らを見ていた。珍しくて少しおもしろかった。でも彼らの声が耳についてだんだん疲れてきた。彼らは、仕事の話や如才ない世間話をしているときには落ち着いた良い声を出していたのに、色恋の話に移るととたんに喉が締まったような特有の発声をして、頭につきぬけるような笑い声をたくさん上げる。そういう音声は長いこと聞いていられるものではない。

 私を連れてきた女性が皆の会計をまとめる。彼女は私を帰途に誘導する。残りの人々はまだ飲むようだ。彼女は言う。あんな話を振ってごめんなさいね。いえ、と私はこたえる。恋愛やセックスの話は好きです。いやな時はいやと言います。すると彼女は立ち止まり、向き直って私の顔を見た。

 ねえ、マキノさん。彼らは、恋愛やセックスの話をしていたんじゃないんです。自分がいかに他人を振り回して身勝手に振る舞えるかという話をしていたんです。あのね、彼らは、権力の話をしていたの。相手だけが自分を好きで、自分は関係の楽しい部分だけを吸っていて、いいなりにさせていて、相手はたぶんそれを不本意に思っているけれど、関係がなくなるのが怖くて言えない。その非対称性を、自慢していたのよ。そういうのが権力だと思っているのよ。

 ねえ、マキノさん、わたしもそう思うことがあるの。わたしの会社は風紀が乱れているけれど、それは偶然じゃないの。うちで成功する人間はみんな権力に貪欲で、そして、いろんな場面で、他人を振り回すと権力を感じるの。

 私は今日いちばん驚いた。そしてなんとなく左右を見た。左右には電柱と車道しかなかった。それから夜だけしか。

 彼女は右も左も見なかった。私をまっすぐに見ていた。そして右の眉をちょっと寄せ、左の口元をちょっと上げて、笑ったような顔になった。そうして言った。マキノさんって、なんだか、赤ちゃんみたい。私はそのせりふをちゃんと聞いていなかった。彼女の顔を見ていた。きれいな人だと思った。