衆議院の代表質問で、心ない野次が飛んだようで、その時の様子が早速新聞記事になっている。

 「心ある野次」といったようなものがあるのかどうかはともかくとして、今回のこの野次に関しては、野次を飛ばした行為そのものよりも、野次の内容をくわしく分析せねばならない。

 記事によれば、1月22日の衆議院で、国民民主党の玉木雄一郎代表が選択的夫婦別姓の導入を求める発言をしたタイミングで、

 「それなら結婚しなくていい」
 という趣旨の野次が
 「自民党席の女性議員から飛んできた」
 のだという。

 なるほど、心ない野次だ。

 しかしながら、心ない野次を飛ばす人間にも、やはり心はあるわけで、今回は、その彼または彼女の「心」について考えてみたい。

 選択的夫婦別姓については、これまで、ほかのところにも何回か寄稿したことがあって、その度に同じことを書いている気がしている。もっとも、夫婦別姓のような隅々まで論点のはっきりしている話題については、あえて別の角度から主張を展開することや、別の書き方で読者を説得しようとすることの方が、かえってむずかしいとも言える。ひとつの問題について、毎度同じ展開で同じ内容の話を繰り返すのは、当然といえば当然のなりゆきではある。段ボールの底に隠れているかもしれない腐ったミカンを早めに取り除いておくべきであることについて、特段に新奇な見解はないし、取り除く方法に関して斬新な手段を考案すべきだという話でもない。あたりまえのことを伝えるためには、あたりまえの言い方であたりまえな言葉を根気よく繰り返すほかにどうしようもない。

 野次を飛ばした議員が、男性であったのか女性であったのかは、この際、主要な論点ではない。たいした問題でもない。個人的には、あえて積極的に無視すべきポイントだと考えている。

 というのも、ここのところのジェンダーロールをつつきまわすと、別の問題が立ち上がってきてしまって、非常にぐあいがよろしくないからだ。ぐあいがよろしくないというのはつまり、夫婦別姓をめぐる論争をさらなる混乱に陥れようと画策している人々に塩を送る結果になるということだ。なので、野次発信者の性別や姓名を云々する話題には踏み込まない。

 ただ、その野次が、自民党議員の席から飛んできたことには、やはり注目しておかねばならない。

 理由は、自民党が、日本で一番たくさんの支持者を集めている政党だからだ。

 その唯一絶対とも言える国民的な与党たる自民党の議員が集まっている席の中にあって、野次を飛ばした議員さんは、選択的夫婦別姓についての自分の率直な考えが、そのまま「国民の内なる声」だという自信を抱いていたからこそ、あえてそれを不規則発言として声に出してアピールしたのだと思う。

 彼または彼女は、自分の野次が「非常識」で「空気を読まない」「異端の」声だとは、ついぞ考えなかった。むしろ、玉木氏の要望への痛烈な反撃である自分の言葉が、少なくとも自民党議員の「総意」ないしは、「安倍総理を中心とする党中枢のメンバーの主張を集約したコメント」であると強く確信しているがゆえに、あの場で、玉木氏に届く声量で、
 「それなら結婚しなくていい」

 という主張を呼ばわったはずなのである。

 野党が導入を求めている選択的夫婦別姓は、その名が示す通り、結婚するカップルに対して、夫婦別姓を「選択的」に容認することを旨とする民法第750条の改正案だ。

 ここでいう「選択的」の意味は、具体的には、新たに結婚する夫婦が「夫婦別姓」と「夫婦同姓」のうちのどちらでも好きな方を選択できるということで、実質的には「自由選択」を許す手続きだ。

 思うに、読解力の高くない人々は、ここのところを誤解している。

 「選択的夫婦別姓」

 という字面(じづら)から、いきなり「夫婦別姓がベースになる」というイメージを受け取って、その「新しい夫婦の誰もが夫婦別姓で結婚する」イメージに対して反発を抱いたうえで反対に回っている人々が、おそらく日本人のうちの3割かそこいらはいるのではなかろうかと思うのだ。

 でなくても、この問題を
 「夫婦別姓と夫婦同姓とどっちがいいのかしら?」

 というざっくりした二択の問題としてとらえてしまっている人は少なくないはずだ。でもって、

 「別姓っていうのも色々と不便そうだし、だいいち子どもがどっちについていいかわからなくてかわいそうじゃない? 私は別姓には反対だわ」

 てなことを考えて、選択的夫婦別姓に反対している、と、そういう人たちが一定数いると私は想像している。

 違うのである。

 私たちは
 「夫婦別姓と夫婦同姓のどちらが望ましいのか」

 を問われているのではない。われわれは

 「夫婦同姓を強制されるべきなのか、それとも、別姓婚を選びたい人に選択の自由を容認するのか」

 の二択を問われている。

 もっといえば、選択的夫婦別姓がわれわれに問うているのは、
 「強制vs自由」
 のどちらを選ぶかなのであって、それゆえ、最終的にこの問題は、
 「他人の別姓婚を許すのか」

 という問いかけに還元される。

 論理が飛躍したと思っている読者がいるかもしれない。でなくても、ややこしくなっている。

 話を整理する。

 まず夫婦同姓による同姓婚を望むカップルは、現在の制度であれ、選択的夫婦別姓制度が導入された改正民法下であれ、どっちにしても同姓婚を貫徹することができる。同姓婚を禁じる法律はどこにも存在しない。ということは、彼らは自分たちの結婚に関して、選択的夫婦別姓制度を導入した民法改正案に反対する理由を持っていない。そういうことになる。

 次に、夫婦別姓で結婚することを願っているカップルは、現状の民法のもとでは、望み通りの形態で結婚することができない。しかし、民法が改正されて選択的夫婦別姓制度が導入されれば、別姓婚で入籍することができる。ということは、彼らには、選択的夫婦別姓制度を組み込んだ民法の改正案を支持する理由がある。

 さて、それでは、選択的夫婦別姓制度を組み込んだ民法改正案に反対する理由を持っているのは、具体的にはいったいどんな人たちなのだろうか。つらつら考えるに、それは、
 「自分たち以外の他人が夫婦別姓で結婚することを容認したくない人たち」

 ということになる。

 自分たち自身のことであれば、どっちの法律であれ、同姓婚の自由は保障されている。
 とすれば、反対する理由は、他人の結婚に対してだけということになる。

 まさかとは思うが、そんなケツメドの小さい人たちが、日本人の多数派なのだろうか?

 答えを先に言うと、そんなことはない。

 自民党の多数派は、選択的夫婦別姓に反対しているかもしれないし、自民党の支持母体である日本会議はもっと露骨に反対運動を展開している。

 でも、一般国民の多数派が、この期に及んで他人の夫婦が別姓で一緒になることにいちいち反対しているのかというと、そんなことはない。

 われわれは、いくらなんでもそこまで頑迷ではない。

 法務省が公開している、《選択的夫婦別氏制度(いわゆる選択的夫婦別姓制度)について》というページにくわしいデータが掲載されている。

 そのページのリンク先にある
 「選択的夫婦別氏制度に関する調査結果の推移(総数比較)

 と題されたグラフを見ると、この件についてのこの四半世紀ほどの世論の推移が一覧できる。

 平成29年(2017年)のデータでは、
 「夫婦は必ず、同じ名字(姓)を名乗るべきであり、法律を改める必要はない」と回答した人は29.3%に過ぎない。

 対して
 「法律を改めてもかまわない」は、42.5%、
 「夫婦は必ず同じ名字(姓)を名乗るべきだが、婚姻前の氏を通称として使 えるように法律を改めることはかまわない」が24.4%、
 「わからない」が、3.8%となっている。

 これを見ると、民意は、夫婦別姓を容認している。

 ちなみに年代別のデータを見ると、平成29年の数字で、
 「法律を改めてもかまわない」
 とした人は、
 18~29歳で50.2%、30~39歳で52.5%と、過半数を上回っている。

 つまり、少なくともこれから結婚する可能性が高い世代である20代から40歳ぐらいまでの日本人は、圧倒的に別姓婚を容認する法改正を支持しているのである。

 さて、こういう数字を見せられると、国民政党である自民党が、どうしてあえて民意に逆らってまで夫婦同姓一択の強圧的な結婚制度の維持に拘泥しているのかが、あらためて不思議に思えてくる。いったい彼らは何を恐れているのだろうか。あるいは、恐れていることとは別に、彼らなりの狙いがあるということなのだろうか?

 どうしてあの人たちは他人の結婚に介入したがるのだろうか。あらためて考えてみるに、不思議な心理だ。見も知らぬ他人の別姓婚を、なんとしても許したくないと考えているあの人たちは、いったいどういう理由で、他人の名乗り方を自分たちがコントロールできると思い込んでいるのであろうか。

 仮に、近い将来、選択的夫婦別姓制度が実現したのだとして、おそらく8割以上の新婚夫婦は、これまで通り同姓での結婚を選択するはずだ。あるいは、同じ名字で結婚することを願うカップルの割合は、9割を超えるかもしれない。

 とすると、別姓に反対している人たちは、くだくだしい各種の改姓手続きの煩雑さをきらって、とりあえず別姓での入籍を選ぼうとしているカップルや、仕事上の継続性を重んじる理由から互いに旧姓のままで暮らす結婚生活を選択する若い二人を、いかなる理由において排除せんとするのであろうか。

 よくあるのは、
 「日本人の家族観が破壊されるから」
 「家族の絆があやうくなるから」

 という回答なのだが、これらにしたところで「他人の家族観」「他人の絆」に過ぎない。

 自分自身が自分たちの固有の家族の家族観を死守したいのであれば、同姓の結婚と同姓の家族を死守すれば良い。それだけの話だ。あるいは、自分たちの家族が同姓でなくなった瞬間に絆を失ってしまうと考える向きの人たちは、他人はどうあれ、自分たちだけは同じ名字を守り通せば良い。誰も文句はつけないはずだし、法律も同姓婚の自由は完全に保障している。

 もしかすると、日本中誰も彼も同じような家族であり続けないと、日本の家族観が崩壊してしまうと、彼らはそういう順序でものを考える人々であるのだろうか。

 それほどまでに、彼らの中の「家族」というのは、脆いものなのだろうか。

 たとえば、離婚して旧姓に戻るシングルマザーの家庭や、外国人のパートナーと暮らしている未入籍の同居家族や、複数の性的マイノリティーによる戸籍上は他人であるに過ぎないカップルや、適齢期を過ぎたと判断されがちな年齢の独身独居生活者は、彼らの判断基準からすると、日本の伝統的な家族観を破壊している破壊分子ってなことになるのだろうか。

 私の住んでいる東京の北東部の地域話をすれば、私が育った50年前とは、まるで様子の違う町になっている。

 この20年ほど、独身の外国人に加えて、家族で暮らす外国人が目に見えて増えた。

 それゆえ、私の母校の小学校には、カタカナの名前の子どもたちがたくさん通っている。

 両親が揃っていない家庭から学校に通っている子どもたちも少なくない。

 これは、崩壊だろうか?

 私たちの町では、なにか間違ったことが進行していて、われわれのコミュニティーは壊滅寸前なのだろうか?

 私は必ずしもそうは思っていない。

 むしろ、目の前にある「リアル」が、これほどまでに変容しつつあるのに、それを直視しようとせずに、あいも変わらずサザエさん一家だの、三丁目の夕日だのを「日本の家族の理想」として引用している政治家の頭の中身の方がどうかしているのだと、少なくとも私はそう思っている。

 安倍総理大臣は、その著書『新しい国へ―美しい国へ・完全版』(文春新書)の中で、自身がかつて自民党の「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」の座長をつとめた経験を示唆しつつ、
 《子どもたちにしっかりした家族のモデルを示すことは、教育の使命ではないだろうか。》
 と言い、また
 《家族が崩壊しつつある、と言われて久しい。離婚率が上がり、シングルマザーやシングルファーザーに育てられた子や再婚家庭の子も増えている。現実問題として、少年院に収容されている少年たちの九割近くが、家庭に問題を抱えているといわれる。》
 という問題意識を明らかにしつつ、最終的に
 《家族のかたちは、理想どおりにはいかない。それでも、「お父さんとお母さんと子どもがいて、おじいちゃんもおばあちゃんも含めてみんな家族だ」という家族観と、「そういう家族が仲良く暮らすのがいちばんの幸せだ」という価値観は、守り続けていくべきだと思う。》

 と結論づけている。

 家族を大切にする考え方に異存はない。

 ただ、その「家族」なり「家族観」なりを防衛するために、日本中の家族が、どれもこれも同じスタンダードで再生産される粒ぞろいの斉一的な家族単位であることが望ましいというふうには私は考えない。

 自分の家族について自分が思うことと、他人の家族に関して他人が考えるところは、おのずと違っている。あたりまえの話だ。とすれば、自分自身の個人的な「家族観」とやらを守るために、他人の家族のあり方に注文をつける態度は、少なくとも私には思いもよらぬことだ。失礼にもほどがある。

 不思議なのは、日本の伝統的な家族観を守るためには、伝統的家族観を守りたいと思っていない人たちに対しても伝統的家族観を守ることを強制しないといけないと思い込んでいる人たちがいることだ。

 彼らは、いったい何者なんだろう?

 そういえば、百田尚樹さんの著書『日本国紀』の帯には、
 「私たちは何者なのか」

 というキャッチコピーが大書されていた。

 せっかくなので、この場を借りて、私も問うておきたい。

 あんたたちは何者なんだ?

(文・イラスト/小田嶋 隆)

小田嶋隆×岡康道×清野由美のゆるっと鼎談
「人生の諸問題」、ついに弊社から初の書籍化です!

 「最近も、『よっ、若手』って言われたんだけど、俺、もう60なんだよね……」
 「人間ってさ、50歳を超えたらもう、『半分うつ』だと思った方がいいんだよ」

 「令和」の時代に、「昭和」生まれのおじさんたちがなんとなく抱える「置き去り」感。キャリアを重ね、成功も失敗もしてきた自分の大切な人生が、「実はたいしたことがなかった」と思えたり、「将来になにか支えが欲しい」と、痛切に思う。

 でも、焦ってはいけません。
 不安の正体は何なのか、それを知ることが先決です。
 それには、気心の知れた友人と対話することが一番。

 「ア・ピース・オブ・警句」連載中の人気コラムニスト、小田嶋隆。電通を飛び出して広告クリエイティブ企画会社「TUGBOAT(タグボート)」を作ったクリエイティブディレクター、岡康道。二人は高校の同級生です。

 同じ時代を過ごし、人生にとって最も苦しい「五十路」を越えてきた人生の達人二人と、切れ者女子ジャーナリスト、清野由美による愛のツッコミ。三人の会話は、懐かしのテレビ番組や音楽、学生時代のおバカな思い出などを切り口に、いつの間にか人生の諸問題の深淵に迫ります。絵本『築地市場』で第63回産経児童出版文化賞大賞を受賞した、モリナガ・ヨウ氏のイラストも楽しい。

 眠れない夜に。
 めんどうな本を読みたくない時に。
 なんとなく人寂しさを感じた時に。

 この本をどこからでも開いてください。自分も4人目の参加者としてクスクス笑ううちに「五十代をしなやかに乗り越えて、六十代を迎える」コツが、問わず語りに見えてきます。

 あなたと越えたい、五十路越え。
 五十路真っ最中の担当編集Yが自信を持ってお送りいたします。

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