「島津率いる薩摩は、戦国最強の軍団」ってホントなんだろーか?
ホントなんだろーかシリーズ前作
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@1059kanri 尾張は弱兵というイメージもあまり根拠がないようですし、結局はどこかの兵が極端に強かったり弱かったりはなかったのかもしれませんね。 「上方武士は軟弱」「板東武士は脳筋」みたいなディスりあいはあったかもしれませんけど。
2020-02-13 19:37:38@1059kanri 慶長の役の泗川の戦いでは島津勢が活躍しました。弱くはなかったでしょうね。ただし、日本の他国との軍勢との比較が難しいですね。
2020-02-13 19:38:36@1059kanri そうなんですねー 戸次川の戦いとか、島津の退き口とか、すごいのかなーと思っていました。
2020-02-13 19:40:55@1059kanri 秀吉による九州平定前の九州侵攻も鉄砲を入手した優位性がついてからでその後の二度の朝鮮侵攻時の戦いぶりも神話の箔付けになったのかなとは九州の一住民としてしては感じます。
2020-02-13 19:41:01@0344hmm0521 少なくとも戦国期、島津も含めて九州兵は決して強兵とは考えられていませんでした。九州の人々自身も東海東国こそ武士の本場であると考えていたようです。
2020-02-13 19:42:05@1059kanri 「泗川の戦い」と「露梁海戦」(真偽は確かではないですけど)、「関ケ原の戦い」での活躍が印象深いです。
2020-02-13 19:46:38@1059kanri クロカンでしたっけ。九州の大名家は軍配に従わないちんたらした兵卒が多いって嘆いたり策略に利用していたのは
2020-02-13 20:05:05@1059kanri @0344hmm0521 島津義弘が関ヶ原の後に徳川旗本衆の精強さに震え上がったとまで書いていますからね
2020-02-13 20:14:26@1059kanri 督戦隊を置いて、後ろへ逃げ出す兵は●●!なんて軍法の家ですからねえ…… (乱取りのチャンスがあれば頑張ったのかしら;)
2020-02-13 20:16:29@jm74283055 @0344hmm0521 それが本音かどうかはともかく、装備などを見てもやはり中央、東国の武士のほうが、当時は充実していましたしね(恐らく戦術戦略も)。島津など九州勢は、貿易の利がありながら意外と鉄砲装備率も高くないなど、当時の中央勢力から見れば遅れている面がやはりあったと思います。
2020-02-13 20:18:29@1059kanri @0344hmm0521 実際に忠勝が関ヶ原後に敵が弱すぎただけだと言っていますし 軍勢500(首級90)
2020-02-13 20:20:11@jm74283055 @0344hmm0521 九州役において堀秀政も、薩摩勢を「弱すぎる」とるす逸話が残っていて、少なくとも軍勢の強弱で言えば、そういう印象が有ったのだと思われます。
2020-02-13 20:23:31@1059kanri 幕末まで存続した大名家が、先祖を美化・超人化・神格化するのはよくあるケースですが、土佐山内家の初代・一豊が全くそういう話を聞かないのは、本当にしょうもない人だったんですかね。「山内一豊」の読みすら、「やまのうちかずとよ」ではなかったらしいですね…😢。
2020-02-13 20:26:50@5UHtI8HUS8vaxTS 山内一豊も土佐藩の中ではきちんと神格化されています。山内家譜などを見れば彼の武勇、知略が高らかに謳い上げられています。また土佐藩に於いて「一豊」などと諱を呼ぶことは決して無かったと言って良いです。大通院殿様、とかでしょうね。
2020-02-13 20:33:52@1059kanri え?そうだったんですね。どうしても『信長の野望』シリーズの能力値と、顔グラフィックで判断してしまいました。土佐に預けられた毛利勝永の方が格好良すぎるんです。
2020-02-13 20:36:53