三流国家の首都に暮らすことについて


 私が京都から東京に引っ越してきたのは、2017年の10月だ。つい最近に引っ越してきたという感覚が未だに消えないが、実際にはすでに2年と数ヶ月経過している。引っ越したのは28歳の頃で、それまでの28年間はずっと京都で生活してきた。

 引っ越したきっかけは就職である。24歳の時に修士を卒業した私はそのまましばらく京都でフリーターをしていたのだが、意を決してフルタイムの仕事を目指したときに、東京に移ることにしたのである。京都を出たことにはいくつかの理由がある。まず、実家で家族と暮らすことがあまりに気詰まりになっていて、フルタイムで働くことで家賃が支払えるようになるなら家を出たいということがあった。また、京都という街自体にもあまりに長い間住んでおり、行けるところにはどこにも行き尽くしていたので、閉塞感を感じていた。

 移る先を東京に選んだ理由もいくつか存在するが、まずは「仕事の選択肢が多い」という現実的な理由だ。私は職歴や資格の問題で当初は英語を活用する仕事を目指さざるを得なかったが、関西や他の地方では英語を活用できる仕事はなかなかない(観光系の仕事や客商売なら京都でも英語の需要はたくさんあるが、そういう仕事はやりたくないので選択肢から外れる)。ゆくゆくはライターやwebメディア関係の仕事に就きたいという気持ちもあったが、そういう系の会社だってほとんど東京にしか存在していないようなものだ(ちなみに、東京に来てから2つ目の仕事では希望通りにライターになれていた)。

 また、大学時代に実家を出ずに京都の大学に通っていたことがずっと心残りだということもあった。たまに「女子学生が東京の大学に行こうとしても親がそれを許さずに実家から通える範囲の大学にしか通わせない問題」というものが社会的に話題になることがあるが、私は男子学生だが全く同じ目に遭っていた(関係のない話になるが、だから、女子学生向けの家賃補助みたいなアファーマティブ・アクションには、それらの施策の有効性とか社会的意義などとは関係のないところで不愉快な思いを抱いてしまう。これはアファーマティブ・アクションに本質的に付きまとう問題だと思うが、一定以上の数が存在することで集団として認知されるマイノリティ(東京に行かせてもらえない女子学生など)は施策の対象になるが、数が少なすぎて集団として認知されないマイノリティ(東京に行かせてもらえない男子学生など)は施策の対象にならない、ということには理不尽さが付きまとう)。

 私は外国人と外国語で会話することが好きではないので国外に出るという選択肢はもとから無い。そして、京都の人間が日本国内で新しい場所で仕事を始めるとなると、大半の場合は東京が最初の選択肢になるだろう。大阪や神戸などの関西の他の街はあまりに身近過ぎるし、家から通えなくもないのだから、わざわざ引っ越すのはもったいない。そして、四国や九州や東北や北海道などの田舎に仕事を探しに行くのは本末転倒だ。となると関東になるが、埼玉や栃木や千葉などのどっちつかずな地域を選んでしまうと「関東ならでは」の生活感が味わえたり都会ならではの経験をしたりすることができなくなりそうなのでダメだ。横浜はアリだが、どうせならいっそ首都であり最大の都会である東京に住む方が良いというものである。

 そういうわけで東京を選んだのだが、この選択がほんとうに正しかったかどうかにはいまでも自信が持てない。都会ならではの生活を味わえている気もする一方で、自分が都会に暮らす意味は全くないような気がする。また、アメリカとかヨーロッパとか中国とかではなく「日本」という国の首都にそもそも特別な価値が存在するかどうかも怪しい気がしてきた。


 「都会」に暮らすことの本質的な問題として、そもそも家賃や生活費などのランニングコストにも金がかかるのに、都会ならではの遊びをしたり経験をしたりすることにも金がかかる、ということがあるだろう。

 私は特に稼ぎが良くない仕事に就いていたので毎月の生活もギリギリだし、貯金もほぼ存在しない。特に東京に引っ越して最初の一年は、月末には残りの預金が数百円になることばかりであった。だから、話題の飲食店に外食に行くなんてことはほとんどないし、友人たちと外食に行ったり飲みに行ったりする時にも、京都にいた時に行っていたのと全く同じチェーン店にしかいけない。自分ひとりで外食することはなく、必然的に自炊が増えてしまう。東京といえども安い八百屋は探せばどこにでもあるので食材の値段はさほど問題でもないのだが、それでも、実家に暮らしていた時に比べると食のレベルが明らかに下がっているのは悲しいものである。自分のペースや体調に合わせて食べ物の種類や量や食べる時間を決定できる、というのは自炊ならではの良さではあるが…。また、体調を崩して病院に行く必要が生じたときには、保険が利いても数千円はかかってしまうし、その数千円が生活に与える影響も大きい。

 生活がギリギリになるのは住んでいる家の家賃の問題も大きいだろう。最初の2年弱は、中野にある沼袋という町で1DKの部屋に住まされていた。「住まされていた」というのは、私は1DKの部屋に住む必要性を全く感じていなかったのに、両親がしつこく「一人暮らしは許すが狭い部屋に住むことは許さない、最低でも1DKの部屋を選ばなければ引っ越しは許可しない」と言ってきたからである。私の両親はアメリカ人であり「ウサギ小屋のような日本のワンルームや1Kのアパートは人間の住むところではない」という確固たる考えを持ち続けているために、自分たちの息子がそんな惨めな空間で暮らすということはプライドが許さなかったのだ。しかし、東京での就職が決まったときに慌てて部屋を選ぶ必要があり他と比較する時間がなかったから仕方がない部分もあるとはいえ、水周りが異常に不潔だし冷暖房の効き目は悪いしドアのスプリングが壊れていて危険だし(いちど親指を挟まれてけっこうな怪我をした)大家が金に汚い業突く張りの人間のクズだし(ドアのスプリングを直してくれと言っても直さないしその他の家の管理や修繕も一切しなかったくせに敷金を1円たりとも返してくれなかった)、西武新宿線の駅から徒歩5分という利便さがウリなのにすぐに駅が工事を始めて入り口の位置が移動して家から駅まで10分かかるようになってしまったしそもそも西武新宿線自体が雨が降るだけですぐに遅延したり停止したりするような雑魚カス路線だし(けっきょく家から徒歩20分弱の中野駅を利用することに切り替えた)踏み切りの時間も長くて邪魔だし、色々と最悪だったのに家賃は8万7千円もしていた。これは特殊な事情が問題であって、普通の人はいくら東京であっても9万円弱の家賃の部屋に一人暮らしをすることはないだろう。

 そのあとは新宿区の四ツ谷の、家賃が8万円の1Kのマンションに引っ越した。8万円もけっこうな値段ではあるのだが、当時働いていた会社の近くということがあり三割の家賃補助が出ていて実質的に5万6千円だったので、これならば「まあまあ」という気持ちの範囲に収まる額だ(諸事情でその会社を辞めてしまったことが当面の問題ではあるが)。洗濯機がベランダの外置きなことだけには困らされているが、風呂とトイレは別々で清潔だし、キッチンは二口コンロも置けて流しも充分に広く、3階なうえに窓とベランダが多くて採光に優れており昼間はかなり明るい。丸ノ内線にも中央線にも南北線にも徒歩で5分もかからないので交通の利便は申し分ない。また、アニメ映画の『君の名は。』の聖地とされている須賀神社のすぐ近くなので、写真を撮影している観光客に対して地元民としての優越感を抱けるのもいいところだ。いまのところ不満はない。

 不満はない…のだが、それでも8万円だ。この金額が生活に与える影響は、やはり大きい。たとえば四ツ谷といえば荒木町をはじめとして大人向けのバーが充実しているのであるが、一回行くだけで数千円はかかってしまうからそうそう行けるものではない。

 都会ならではの楽しみとしては、飲食店のほかにも服や雑貨や本などの「買い物」があるだろう。しかし、幸か不幸か私は昔からモノをあまり買わないタイプなので、東京に来てからも服や雑貨で浪費するということはない。服を買うときはユニクロかアウトレットだ。外食するのと同じく、どこにでもあるチェーン店で済ませてしまっているということだ。本だって、図書館がどの町にもあるから買う必要はない。散髪だって渋谷だとか青山だとかの美容院に行けば相当な金がかかるだろうが、近所の床屋で済ませれば安上がりだ。周りの友人たちは私とは真逆で、5万円〜6万円の家賃で劣悪な環境に住むことを我慢できる代わりに、すぐに服や靴を買ったり散髪したりで浪費することには惜しみない。ここら辺は価値観の違いというものである。

 

 しかし、せっかく東京に住んでいる以上は、何かのかたちで「首都じゃないとできないこと」をしたいものではある。

 ここでまず思い付くのが、やはり「文化イベント」だろう。たとえば映画だ。映画館は京都にもあるが、ミニシアターは少ないから、東京の方が多種多様な映画を鑑賞するチャンスがある。また、映画館と住んでいる部屋との距離も近いので、気軽に見に行けることも大きい。…しかし、ここでも金が問題となってくる。1800円という料金は高すぎるからそうそう気軽には見に行けないのだ。たまたま休日とファーストデイやTOHOシネマズデイが重なったときにはすぐに劇場がいっぱいになってしまってロクな席が取れない(特に休日の東京の映画館の混み具合は異常で、クレジットカードがなくチケットの予約ができなかった時期はまともに映画を見ることができなかった)。また、仕事をしていると、当たり外れの大きい「賭け」であるミニシアター的な映画に貴重な金と時間を費やすことにもためらってしまうものである。結果として、京都にいた時に比べて映画館に行く回数はずっと少なくなってしまった。失業中のいまは時間だけはあるし映画料金が安い日をえらんでいけるのでそれなりに行ってはいるが。

 東京という場所はどこで開かれるどんなイベントも混んでしまうものであり、特に美術館や展覧会などではそれが支障となる。もともと美術館にはあまり興味がないタイプではあるのだが、たまに知的向上心を発揮して行ってみようとしても、入場までに30分や1時間も待たされるとなるともう行く気がなくなる。それに、映画館と同じく、美術館も値段が高い。

 美術館や映画館などについては、金もないのに堪能しようと思ったらやっぱり学生時代でなくてはならない気がする。「学割」は存在しても「稼ぎが少ない人向けの割引き」は存在しないからだ。というか、そもそも、文化に親しもうとする行為が本来は学生のうちに済ませておくべき行為であるのだろう。大人になってからも文化に触れていたければ、そういう仕事に就くか金を稼いで余裕を得るかのどっちかでなければならない。

 そして、東京の文化といえば何と言ってもクラブだ。京都や大阪にもクラブはあったらしいのだが行く機会がなかったし行こうと思ったこともない。しかし、「渋谷のクラブ」だとか「六本木のクラブ」だとかは、字面だけでワクワクする。それで東京に来た当初は何度かクラブに行ってみたのだが、お金が関るしうるさいし空気が悪いしで死ぬほど楽しくなかった。あんな非文明的な場所はないし、映画やドラマなどで登場人物たちが当たり前のようにクラブに行く姿を見るとその登場人物への共感を失うようになったものである。

 

 そして、さらに「東京ならでは」の文化イベントが、ライブや演劇であるだろう。これだって関西にも存在してはいただろうが、その数は東京の方がずっと多いようだ。"ようだ"と書いたのは、私は東京に来てから一度もライブに行ったことがないし、演劇も一回しか行ったことがないからである。

 ライブや演劇に足を運ばない理由としては、例によって金の問題が大きい。そして、そもそもそれらのイベントに興味がないということもあるし、行く価値が見出せないということもある。

 友人のなかには「せっかく東京に引っ越したのだから、東京でないといけないようなライブや演劇にこそ行って、そこで最先端の音楽や文化を摂取するべきだ」と言ってくる人がいる。しかし、いつも思うのだが、そもそも日本の最先端に触れたところでたかが知れている、ということだ。これがニューヨークやカリフォルニアやパリやロンドンなら私の気持ちも違っていたかもしれない。しかし、所詮は東京であるし、それも2020年代の東京だ。80年代であれば、東京もまだどこかの点ではまさに世界の"最先端"であったかもしれないし、それに触れることへの期待や興奮もあったかもしれない。だが、世界のなかでどころか東アジアのなかでも経済的地位が凋落していて、それに伴い国としてのクオリティやパフォーマンスも低下している日本における最先端に触れたところで、それに何の価値があるだろう?

 日本の文化界隈における"三流っぽさ"というものは、東京に来てからとみに感じるようになってきたところだ。

 たとえば阿佐ヶ谷ロフトで行われるようなサブカル系の対談イベントにはいったことがあるが、文化に携わっているはずの人間たちがお互いにネットスラングを使いながらニヤニヤと笑いあいながら無難で益体のない話をずっとするだけでくだらなかった。もっと高尚な文化人たちによる対談や講演に行ってみてもやっぱり登壇者たちはニヤニヤと笑いあっているし、講演の内容もスカスカだ。また、飲み屋などでたまたま知り合った業界人など映画監督や俳優の知り合いの話や交流エピソードなんかを話されたところで、日本の映画なんて私を含めていまや誰も目を向けていないのであり、そんなものに関わっている人たちの話をされたところで憧れもしなければ羨ましくもない。本だって面白いものは翻訳書ばかりだから、仮に作家と知り合ったところでやはりワクワクすることはないだろう。また、どの文化においても内容は劣化しているくせに昔ながらの"業界"的な風習やコミュニケーションだけはいっちょまえに残っているのも鬱陶しいところだ。かといって素人たちの作ったものを見るためにフリマやコミケに行きたくなるわけでもない。とにかく、憧れを抱かせてくれたり惹き寄せてくれたりしてくれる文化というものがもはやないのだ。少なくとも、限定されている金と時間をかけるほどの価値を見出せられることはないのである。


 四ツ谷から新宿までは歩いて30分もかからないので、失業してヒマになった最近は毎日のように新宿まで散歩している。買い物はできずイベントに触れることもできないとしても、街の建物を眺めたり道ゆく人々の姿を眺めていれば、首都に暮らしているという実感が湧くかもしれないと期待してのことだ。

 だが、人を眺めることだってそんなに面白くない。たとえばみんな同じような髪型をした男の若者や同じような化粧をしている女の若者を眺めていたところで「こういう格好が流行っているんだな」という以上の感想は抱けないし、どいつもこいつも同じような見た目をしていてアホみたいだなという感想が湧いてくる始末だ。また、同じ見た目をしている人々を眺めていると、そもそも「流行」というものが必ずしも価値があるものでなければ追いかける必要のあるものでもないことを思い出してしまう。

 新宿駅の南口を出るとすぐに売買春サイト(ハッピーメール)の広告があることにはうんざりさせられるし、歌舞伎町に行くたびに聞かされるぼったくり撲滅ソングのふざけ具合にも辟易だ。文明や文化がまともに保たれている国であれば、あんなものは存在しない。

 こうなると、やはり、東京は住む価値がある場所なのかどうか疑わざるを得なくなってくる。すくなくとも私にとっての価値はないかもしれない。「流行であればなんでもいい」という人であればたやすく価値を見出せるのかもしれないが、そういう人は文化や文明の価値というものについていちど考え直してみるべきなのだ。





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