「大反省会」の果てに待つもの
連日連夜にわたって誹謗中傷が吹き荒れるインターネット世界だが、しかしながら、ここのところにわかに「反省ムード」が広がっているようだ。
そのきっかけは、アルファツイッタラーとしても知られる、女優・タレントの春名風花氏の訴訟事案であるだろう。春名氏に対して執拗な誹謗中傷を書きこんでいた人物が春名氏とその母親に刑事告訴され、7月には最終的に示談が成立したようだ。示談金はなんと315万円という。被害者からすれば金額の問題ではないことは承知しているが、正直なところ、この手の訴訟ではあまり聞いたことがないような額であることはたしかだ。
また、同時期に発生した、リアリティ番組「テラスハウス」の出演者だった、プロレスラーの木村花さんの自死もこうした論調に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。これらの事案によって、インターネット空間の論調は大きくその風向きを変えた。かつて著名人へのバッシングに嬉々として参加していた人びとが、一転して「誹謗中傷はいきすぎていた」「もはやなんらかの規制が必要だ」などと、さながら「大反省会」「懺悔告白会」を始めたのだ。
この大反省会は、ある種の「ショック・ドクトリン」のように、ネットの中傷コメント規制論にまで波及している。だがその果てには「平和で友好的でやさしさ溢れるインターネット世界」が待っているのだろうか。
――残念ながら、そんなことはありえない。

自分のだけは「中傷」ではなく「批判」
その理由を端的に述べれば、だれもが往々にして、自分の言動は「正当な批判」だと考える一方で、相手のそれは「不当な誹謗中傷」だと考えているからだ。
ネット上の中傷に対する問題意識が高まり「誹謗中傷をみんなやめるべきだ」と、多くの人が異口同音に申し立てる。しかしどういうわけか、その「みんな」のなかに自分は含まれていないようだ。
「誹謗中傷はやめよう!」と呼びかける人は大勢見かけるが、しかし「誹謗中傷はやめます!」とはだれひとりとして表明していないことが、この「大反省会」の結末をすでに示唆している。もちろん、真剣に「誹謗中傷はやめます!」と考えている人が完全にゼロというわけではないはずだ。なかには、今回の「大反省会」によって、本当に自らのこれまでの行いを悔い改め、誹謗中傷の一切をやめようと決意をあらたにした人もいるかもしれない。
だがそれはあくまでほんの一握りの例外にすぎない。これまで平然と誹謗中傷を繰り返してきた人間の多くは、それほど都合よく自分の行動を悔い改めることはない。
比較的に分別のある人ほど、わが身のふるまいを内省して口を慎むが、一方で自分のことを省みられない人は、明日も元気に中傷コメントを書き込むだろう。結果として「自制心のある人はネット・コミュニケーションから去っていき、暴言や中傷を書き込む人ばかりが残留して、より最悪なネット空間が濃縮されていく」という残念な現象が発生する。

それはさしずめ、アイドルのコミュニティにおいて「迷惑なことをするお客さんはお断りです! 来ないでください!」などと運営側が通達すると、運営側の期待に反して、これまでまったく迷惑行為などしてこなかったいわゆる「良客」とされる人びとのほうが「ひょっとして、自分のアレがよくなかったのかな……」などと真摯に反省して自発的に離れていくが、運営側が本当に排除したかった側の迷惑客は「ふーん、そんな奴がいるんだ。まあ俺はそんな奴とはまったく違うけどな(笑)」とまるで自分を客観視できずに居残ってしまう現象とまったく同じ仕組みである。
この「大反省会」の果てには、自らの誹謗中傷や名誉毀損的な言動を「正当な批判」と信じてやまない選りすぐりの異常者たちが跋扈(ばっこ)する、「やさしい世界」とは程遠い百鬼夜行が完成する。
「アイツは、中傷されても仕方ない!」
「大反省会」の開催によって、にわかに誹謗中傷が問題化し、場合によっては訴訟のリスクさえ出てきたことで、これまで元気に誹謗中傷を繰り返してきた人びとにとっては、突如として人生のリスクが高まる事態となってしまった。
すると彼・彼女らは、その緊急事態に対応するため「弁解」をはじめた。すなわち「自分の言説は特別に意義のあるもので、誹謗中傷にはあたらない」「自分の強い言動には正当な理由があった」「百歩譲って誹謗中傷にあたるかもしれないとしても、しかし私が戦っていた相手は、それに値するならず者だったのだ」――と。
だいたいは以下のような具合だ。
たいていの人は「自分のこれまでの暴言がいかに妥当だったか(相手がいかに卑しい者だったか)」を力説し、「自分は悪人ではありません(私にこのような言動を向けられた者こそが、皆さんが本当に敵視すべき悪人です)」と周囲にアピールすることに余念がない。
「アフター大反省会」のインターネット世界は、誹謗中傷の「ステージ」がワンランク上昇するだろう。人びとは「誹謗中傷をしない/させない」ようにふるまいを変えることはない。そうではなく、「なぜこの者を誹謗中傷してもよいのか」「私の誹謗中傷はいかなる理由で『正当な批判』であるか」をアピールする技術をさらに洗練させていくはずだからだ。
「私のことばはたしかに辛辣で誤解を招くものかもしれない。しかし、たしかな正義があり、理があるのだ」と巧みに演説するリーダーたちが、いままで以上に誹謗中傷のスクラムを組織的に統率するようになる。あるいは「たしかに彼・彼女の言動はしばしば攻撃的かもしれない。だがそれはもっともな理由、大義あってのことだ。彼・彼女がこのような言動を向けるときは、相手によほどの瑕疵があるのだ」などと喧伝する擁護者・支持者たちを大勢抱える組織力や党派性が幅を利かせるともいえる。
誹謗中傷に対する「反省ムード」が、今度こそ平和なインターネット世界が訪れる兆しであると期待する人にとっては残念なお知らせだが、インターネットとりわけSNSにおける誹謗中傷・他者への憎悪や不和、分断、相互不信や敵対心などは、この「大反省会」以降沈静化するどころかさらに先鋭化するだろう。
「アンチの心」を尋ねてみたら
少し前のことになるが、私に対して熱心に誹謗中傷を繰りかえしていたらしい、ある「アンチ」がひとりいた。
彼(と仮にしておこう)は、なんらかのきっかけ(おそらくは――私がネット上ではその手のアンチコメントにまったく反応しないが、実はきっちり発言者のログを保存しており、必要とあればリーガルな対応も辞さないと軽く示唆するツイートをしたこと)によって態度を急変させ、「謝罪」のために接触してきたのである。
私はふだんエゴサーチをほとんどしないので、その彼のことは観測範囲外であり、存在自体を認識していなかった。したがって、当然ながら彼が自分に対する「アンチ」であることを知ったのは、その「謝罪」の申し出があったときがはじめてだった。
彼にとっても私は、これまで見たことも会ったこともない、社会的にも物理的にも遠く離れた無関係な他人である。にもかかわらず、「もし訴えられたらどうしよう」と、自分のこれまでの言動が不安になってしまうくらい過剰な「アンチ」行為を、彼はやってしまったのだろうか。
私は彼からの「謝罪」を受け入れる条件として――といってはなんだが、ほとんど興味本位で、「アンチをはじめた理由」を尋ねることにしたのだった。

聞くと、きっかけはほんの些細なことだった。たまたまタイムラインに私のツイートかあるいは記事が流れてきて、その内容が気に入らなかったから、ひと言コメントを入れたのだそうだ。
最初はまったく反応がなかったが、そうした批判コメントを数回繰り返したところ、ある日、同じく私の「アンチ」をやっているであろう別の人から「褒め」られたり「共感」されたりするようになっていったのだという。そしてその時に、得も言われぬ嬉しさを感じたのだと彼は話した。「共通の敵をつくって、だれかと悪口を言い合うことがこんなに楽しいのだとはじめて知った」――と。
以来、彼のなかで私の存在はどんどん大きくなっていったという。私のような人間がいるから、自分はこの社会で生きづらさを感じているのだと、その時は本気で思うようになっていたと彼は話してくれた。彼にとって私はもはや「この社会でまともな市民権を保ってはいけない人間」と見えていたらしい。彼は自分自身のことを誹謗中傷の加害者ではなく、私のような人間によって生きづらさを与えられている被害者であり、その被害を自分で救済するための戦いをしているつもりだったというのだ。
アンチ活動でつながる絆
私を中傷すると、複数の人が褒めてくれたから、それが「間違った行為だ」などとはまったく考えもしなかったという。むしろ「大勢が褒めてくれるのだからただしい」と思っていたようだ。御田寺をバッシングすれば、大勢の人に応援される。こんなに大勢の人から嫌われている御田寺は、間違いなくとんでもない悪人であり、生きるに値しない人間の屑なのだ。そう思い込んで疑いもしなかったようだ。
いわく現実の彼は、だれからも褒められたり、共感されたり、応援されたりすることのあまりない人生を歩んできたのだそうだ。だが、SNS空間では違った。ここでは「自分のことを評価し、支持してくれる人」がたくさんいた。その人たちの期待に応えることは楽しいし嬉しかったから、私の「アンチ」を熱心に続けたのだという。
やがて、自分のことを褒めてくれていた人たちから見捨てられるのが不安になり、その不安を解消したいという欲求が、私に対するさらなる敵意へと変換されていった。そうしているうちに、私は彼にとって「四六時中言動を監視し、いつか倒さなければならない(社会的に死んでもらわなければならない)巨大な敵」に見えていたという。
しかし、アンチ活動自体は楽しいことばかりではなかったらしい。むしろ、自分の人生が私によって振り回されるような感覚が、たまらなく不愉快でさえあったようだ。ツイッターで、私が楽しそうにゲームをしている報告をしたり、新しい記事や仕事について発信したりする様子を目の当たりにした日は、それだけで一日中憂鬱になり、死にたくなるくらいの気分になってしまったのだという。
「憎む」という行為の高い代償
「憎む」ことによるつながりで得た仲間は、「憎む」ことによってしか保てない。
だが「憎む」という行為にかかる「コスト」を、彼は認識していなかったように思う。「憎む」とはノーコストでできる営みではない。それどころか、むしろたいへんな精神的リソースを求められるし、「憎む」その相手の存在が、脳の処理容量をつねに圧迫する。「憎む」とはとてつもなく燃費の悪い営為である。疲弊して当然だ。
だれかを「憎む」ことで得た仲間を失いたくないという不安が強まり、また「憎む」ことによる認知的コストでほかのことがなにも考えられなくなり――彼はもはやSNSに自我を乗っ取られていた。自分ではなく「SNSのなかにあるもうひとりの自分」のために生きるようになっていた。
私はこう伝えた。
たしかに、一時の仲間や自己肯定感が得られるならば「アンチ」活動もまったくの無意味であるとは思わないし、その意味では一定の効用があるのかもしれない。だが、トータルでみれば、それは現実の自分とSNSの人格とを遊離させ、SNSの人格に自分の人生を委ねる、本末転倒な状態に陥るリスクもともなう。
「憎む相手」に人生を預ける人びと
私は彼の告白を聞いて「インターネットで他人を憎むのはやめよう」とますます考えるようになった。なぜなら、だれかを憎むということは、その憎んでいる対象に自分自身の人生を預けることにもなりかねないからだ。
憎んでいる他人がいまどう過ごしているかによって、自分の機嫌が左右される。自分の人間関係が揺れ動く。憎んで、侮蔑して、見下しているはずのその人間に、あたかも自分自身の人生や幸福感の「裁量権」を与えているような、わけのわからないことになってしまう。
だれかを憎めばその瞬間、あろうことかその憎んだ相手が、自分をコントロールするようになってしまう。自分の人生のステークホルダーとして、よりにもよって憎き相手を任命してしまうのだ。これ以上にナンセンスという形容が相応しいことはない。
自分の人生の主導権の一部を、憎くて仕方ない他人に委ね、しかも最悪の場合、民事・刑事の法的リスクまで発生する――そうまでしてだれかを誹謗中傷する価値は本当にあるのだろうか。いま、もしこの文章を読んでいるあなたが、ほんとうの顔も名前も知らないネット上のだれかを憎悪してやまないのであれば、もういちど自分自身に問いかけるべきだ。自分の人生を、本当にその相手に委ねてしまってもよいのかと。
あなたの人生は、あなたしか歩めず、しかもたった一回しかない。