「国は金を刷れ、問題には札束で対抗せよ」〜MMTが私にくれた「勇気と想像力」

夢を見るための経済

あなたに勇気を与える書物

夢を見るための経済というものがあるとして、それは本書のような姿をしているのだと思う。

本稿は、ステファニー・ケルトン『財政赤字の神話』に触発されて書かれている。

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『財政赤字の神話』はMMT(現代貨幣理論)の解説書であり、経済学に関する書物だが、何よりもまず、あなたに勇気を与えるための書物である。

私の肩書はSF作家であり、経済学に関しては門外漢だが、私は本書から勇気をもらい、その勇気をもって本稿を書いている。あるいはその勇気を、あなたや、あなた以外の誰かと分かち合うために筆を執っている。

ところで、経済学に対して門外漢であることは、経済そのものに対して門外漢であることを意味しない、と私は考えている。社会に無関係な者など存在しないように、政治に無関係な者など存在しないように、あるいは生きることに無関係な者など存在しないように、経済に無関係な者など存在しない、と私は考えている。

私は声を上げるための専門知識は持ち合わせていないが、声を上げるための権利を持ち合わせていないわけではない。もちろんあなたも例外ではない。私はあなたのことを知らないが、あなたがどんな人物であれ、夢を見るのはあなたの自由だ。そして、夢を語るのもまた自由である。私はそんなことを思っている。

あなたが本書を手に取るとき、最初にあなたの両目に次の文字列が映り込む。

「財源は絶対に尽きない。足りないのは想像力、ビジョン、勇気である」(帯文抜粋)

私たちの多くは、普段はそのことを忘れてしまっているが、経済とは人間の営みであり、人間の前に経済はなく、人間の後に経済がある。経済が持続するために人間が存在するのではなく、人間が存在するために経済が持続する必要がある。

本来、経済と呼ばれるものは全てそうであるべきなのだが、現実が往々にしてそうなっていないのは、ただ単に、人間が怠惰だからである。怠惰であるということはつまり、資本主義下において、システムの暴力を野放しにし、暴力を許し、暴力に対して何も感じなくなっているということであり、暴力に対して何も感じなくなっている自分を省みることも恥じることもなくなっているということである。

そう、ここには暴力がある。私たちは暴力に囲まれて生きており、それらの暴力は一般に、経済格差と呼ばれている。経済格差は資本主義下において必然的に発生し、必然的に拡大してゆく現象である。経済格差はさまざまな社会問題を生む。

例を挙げてみよう。

たとえば人が自ら死ぬのは金がないからだ。たとえば人が病気で死ぬのは金がないからだ。たとえば医者が治せる病気が治せないのは金がないからだ。たとえば街が寂れてゆくのは、街にホームレスが溢れるのは、街から子どもが消えていくのは、全てひとえに金がないからだ。

人の生死を分けるものは、多くの場合、端的に言って金なのだ。

しかし多くの人には金がない。それではなぜ金がないか。簡単なことだ。給料が上がらないのに税金が上がっているからだ。それではなぜ給料が上がらないか、雇用に回すだけの金が政府にないからだ。それではなぜ税金が上がっているのか、政府に金がないからだ。それではなぜ政府に金がないのか、それは、政府が金を刷らないからだ。

こうしてMMTは主張を開始する。

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問題の本質は財政ではない

『財政赤字の神話』と題された本書は、文字通り、「財政赤字の神話」と「財政赤字の現実」を紹介する。

「政府は家計と同じように収支を管理しなければならない」のではなく、「家計と異なり、政府は、自らが通貨の発行体である」こと。「財政赤字は過剰な支出の証拠」なのではなく、「過剰な支出の証拠はインフレである」こと。「国民はみな何らかのかたちで国家の債務を負担しなければならない」のではなく、「国家の債務は国民に負担を課すものではない」ということ。

「政府の赤字は民間投資のクラウディングアウトにつながり、国民を貧しくする」のではなく、「財政赤字は国民の富と貯蓄を増やす」ということ。「貿易赤字は国家の敗北を意味する」のではなく、「貿易赤字は「モノ」の黒字を意味する」こと。「社会保障や医療保険のような「給付制度」は財政的に持続不可能」であるはずがなく、「政府に給付を続ける意思さえあれば、給付制度を支える余裕は常にある」こと。

問題の本質は財政などでは絶対になく、財やサービスなど、経済の中を流れる「実物資源」そのものである、とステファニー・ケルトンは喝破する。

考えてみればその通りだ。どうして、生きること、生活そのものを支える「実物資源」の話を抜きに、目には見えない数字の話だけをして、生きること=経済の話ができるのだろう。

本来、経済を成立させるのは通貨と実物資源の流れである。実物資源とは、言うまでもなく、水や、火や、食料や、医療物資や、そのほか人が生物として生きるために必要な諸々の資源である。通貨はそれらの資源と交換可能な共通的な記号である。だから、通貨それ自体に価値があるわけではない。通貨に価値があるのは、人の命に価値があるからであり、人の命を成り立たせる実物資源に価値があるからである。まずは人命があり、人命のために資源があり、人命のための資源のために、通貨がある。

通貨は人間が作った道具である。人間は、自分たちの生活をよりよくし、そこで得られる幸福を安定的に持続させるために、さまざまな道具を作り上げてきた。通貨は、その過程で生み出されてきた道具の一つである。だから、私たちは私たちの幸福のために通貨を使うべきであり、通貨のために私たちの幸福を蔑ろにするべきではない。そして私たちが幸福を得るために必要なのは、まさに「想像力、ビジョン、勇気」なのである。私はそう考えている。

〔PHOTO〕iStock
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金は政府によって刷られることで初めて生まれ、それから市場を流れ始める。市場は金を刷ることができない。市場は金が刷られるのを待つことしかできない。一方政府は金を刷ることができる。政府は金を無限に刷ることができる。ステファニー・ケルトンは本書を通し、あなたにそのように語りかける。政府はどれだけ金を刷っても破綻することはない。

事実日本は、大幅な財政赤字が長らく続いているが、日本は破綻していない。明日も破綻することはない。明後日も破綻することはないだろう。それでは財政赤字がいくらになり、どれだけ続けば破綻するのか? そうした問いに対して、MMTはこう答える。「財政赤字がいくらになろうが、どれだけ続こうが、通貨主権を持つ国家が破綻することはない」

財政赤字が国を滅ぼすことはない。少なくとも、財政赤字によってただちに人が死ぬことはない。日本で暮らす私にとって、あるいはあなたにとって、これは端的な事実である。日本は既に、MMTの中に片足をつっこんでいる。事実としてのMMTに対して反論することは、端的に論理が誤っている。日本経済は歴史的に、MMTが正しいことを証明している。

だから、私たちは財政赤字を恐れることはないのだし、実際恐れることなく生きられている。そうした事実を認めるならば、そうした事実を利用しない手はないだろう。資本が生み出す暴力には、資本を用いて抵抗することで対抗することができる。要するに私たちは、勇気をもって、金をガンガン刷りまくり、資本主義が生む問題や不幸に向かって、大量の札束を投げつけることで問題や不幸を解消することができるのだ。

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日本の経験が教えてくれること

むろん、MMTは日本においては事実に基づく理論であるものの――一見するとこれまでの通説/経済理論とは反するがゆえに、「そんなことを推進すればインフレになる」だとか、あるいは「ハイパーインフレになる」だとか、「働く意欲がなくなり社会が維持できなくなる」といったような、紋切り型の批判は多く存在する。

そして、いずれも批判として成立していない。

そもそもの話として、日本は財政赤字を続けていても、インフレにはなっておらず、それどころか長らくデフレが続いている。現代の日本において、デフレは多くの人を殺してきたし、今なお多くの人を殺しているが、インフレは一人の人も殺していない。日本はデフレから脱却すべきであるとは反論の余地のない主張であると思われるが、デフレが終わるということはインフレになるということであり、デフレからの脱却を目指すということはそのままインフレを目指すことと一致する。日本はインフレを恐れるのではなく、インフレを受け入れなければならない状況にあるのである。これは一般論だ。

ハイパーインフレは恐ろしいが、それと同等かそれ以上にデフレは恐ろしい。私たちにとってはデフレが日常だが、そもそもそのこと自体が異常事態なのである。私たちはデフレに慣れすぎており、政府によってそれが当たり前だと思い込まされているが、ステファニー・ケルトンに言わせればそれは、「アメリカが一九三〇年代の大恐慌のときに陥った」「珍しい状況」なのである。私たち日本人は、大恐慌なみの異常事態の中を、過去三〇年にもわたって生かされ続け、そしてそれを――不思議なことにインフレを恐れながら――受け入れ続けているのだ。

ハイパーインフレへの懸念は、デフレから脱却してから=インフレに入ってからするべきことであり、今するべきことではない。たとえば一つの卑近な例として、赤ん坊が生まれる前から「自分の子どもは将来自分を殺すかもしれない」と心配する人はいるだろうか? シェイクスピアの劇の中にはいるかもしれないが、現実にそんな人がいれば滑稽に見えることだろう。今インフレを恐れるということは、要するにそういうことだ。

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労働意欲云々についても同様で、現在は働きたくても働けない人々が多くいる。そうした現実の問題を解決しないままに、仮定の上に成り立つ架空の課題について、優先的に対策を検討するのは愚かしいことだと言わざるを得ない。

整理するとこうなる。MMTは、まずは財政出動による景気回復と雇用の増加を目指している。その上で――次のフェーズにおける対策として――課税による労働へのインセンティブやインフレ抑止を検討している。MMTにおいては税金は不要になる、という批判者は多くいるが、そうした理解は誤っている。批判者を意識してか否かは定かでないが、ステファニー・ケルトンは本書においてこう書いている。

「政府が一切税金を徴収せず、支出した金額をすべて非政府部門のバケツに残す、という極端なシナリオを考えてみよう。それは湯船の栓を閉じるようなもので、私たちのバケツには政府支出がすべて残る。まもなく湯船はあふれ、経済は過熱する。バケツにはお金があふれ、すぐに物価が上昇し始める。適正な赤字の規模とは、経済がインフレ率の上昇をともなわず順調に推移するのを支えるのにちょうど良い量だ」

あるいはそもそも、彼女は次のようにMMTを位置づけている。

「(MMTは)まるで打ち出の小槌のようだと思うかもしれないが、そうではない。MMTは白紙の小切手を与えてくれるわけではない。政府が新たな事業を始めるためにいくらでもお金を使っていいと言っているわけではないし、大きな政府を目指しているわけでもない。MMTは分析のフレームワークとして、経済のなかでまだ十分活用されていないポテンシャル、いわゆる財政余地を掘り起こすことを目的としている。有給雇用を求めている人が何百万人もいて、経済に物価上昇を招かずに財やサービスの生産を増やす能力があるならば、そうした資源を生産的に活用する財政余地があることになる」

思うに、MMTへの批判は多々あるが、それらに共通して言えるのは、論理をいたずらに複雑化しすぎているということではないだろうか。未来を考えるとき、私たちは物事を複雑に考えすぎる傾向がある。私たちは未来のリスクに怯えるあまりに存在しない敵をでっちあげて、存在しない敵と戦ってきた。

けれどもそんな不毛な行いはもうやめるべきだ。私たちは目の前の現実と真摯に向き合うべきだ。私たちは事実について、もっとシンプルに解釈するべきだ。ケルトンは現状を一つの比喩にまとめてこう言っている。

「要するに私たちは、天井高が二五〇センチもある家の中を、ずっと背中を丸めて歩きまわる一八〇センチの男のように経済を運営しているのだ」

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語り得るものをすべて語れ

『財政赤字の神話』は経済学に関する書物だが、派閥や理論、これまでの常識に縛られない自由な思考を私たちに与えてくれる書物でもある。

端的に言って、金があることは多くの問題を解決する。金がないことは多くの問題を生む。繰り返しになるが、社会課題の多くは経済上の課題である。あるいは、経済の問題が全て解決されてなお残る課題こそが、本当の社会課題と呼ばれるべきである。語り得ないものについて語るためには、語り得るものを全て語り尽くす必要がある。そして、語り得るものとは一般に、経済と呼ばれている。

私たちは語り得ないものである。しかし私たちは同時に、語り得るものである経済から逃れることができないものでもある。私たちは実物資源から逃れることはできず、通貨から逃れることはできない。

通貨とは単なる数字ではない。生活を記述する記号である。そのため通貨は社会の姿を反映し、社会の価値観を反映する。社会を構成する人々の価値観は、通貨を通して表現される。需要のある場所に通貨は流れ、通貨の流れる場所に需要は生まれる。欲望の流れは通貨の流れとともにあり、人はつねに通貨とともにある。通貨は人の欲望を描画するとともに、人の欲望を加速させる。通貨は社会のインセンティブを操作することができる。通貨は人を動かす。

そのために、通貨は社会課題を生むこともあれば、社会課題の解決に寄与することもできる。要するに、金は金で解決できる問題を直接的に解決するとともに、金は金で直接解決できない問題を間接的に解決しさえするのだ。

何よりも勇気が必要

本稿も終わりにさしかかっている。

最後にここで、MMTの議論を受けた一つの思考実験をしてみたい。

たとえば理想の社会の一つのありかたとして、持続可能な社会について考える。

持続可能な社会とは、誤解を恐れず言えば、子どもを安心して産み育てられる社会だと私は思う。

安心感を得るためには何よりもまず、セーフティネットが必要だ。そこでは、最低限暮らしていけるだけの収入が必要だし、病気や障害をかかえてもハンディキャップにならないだけの仕組みが必要だ。そもそも子どもを産み育てることへのインセンティブもあるといい。

そして、セーフティネットを厚くするように福祉分野に通貨を発行すれば、それはそのまま、生きること・産むこと・育てることへのインセンティブになる。

たとえば、一人あたり月14万円程度のベーシックインカム。夫婦で暮せば28万円、子どもを一人産めば42万円、二人目の子どもで合計56万円の収入になる。これだけでもう、子どもを産むことへのインセンティブとしては十分なように思われる。そして、産後手当や休業手当、あるいは失業手当や疾病手当をどかどかと送り込む。

もちろん、手当を作る分野は上記に限らない。要するに、社会課題が生まれている分野にとにかく通貨を投入しまくることが重要なのだ。私は本書を読み終えて、冗談抜きでそんなことを考え始めている。

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私たちは資本主義の中を生きている。

資本主義とは、資本を最大化させるために駆動する機械の名である。資本の集まる場所に資本は集まり、資本の集まらない場所には資本は集まらない。資本主義とは、そうした反復を無限に続ける機械である。その機械は人間の実存を考慮しない。人間の幸福など考えたこともない。そもそもそうした事柄について考えるための機構は、この機械には備わっていない。

資本主義は暴走する。放っておけば、資本主義は必ず暴走する。だから、資本主義の内に生きる人々は、資本主義に対して警戒し続ける必要がある。人間が経済システムに介入する必要がある。人間は、資本主義が当初の想定通り駆動しているか、定期的なモニタリングを行い、定期的なメンテナンスを行う必要がある。人間自身が人間について考え、人間のための経済システムを運営していく必要がある。そのためには、想像力、ビジョン、そして何よりもまず、勇気が必要なのである。

ところで、あなたがここまでこの文章を読んだとするならば、あなたもまた、私と同様に、本書で示された「神話」と「現実」を読んだことになる。あなたはMMTが示す夢を、私とともに見たことになる。望むと望まざるとにかかわらず、あなたは既にMMTのエッセンスに触れてしまっており、あなたはそれを知らなかったころの自分には戻れない。

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それは端的な事実であり、あなたが肯定的な立場をとるにせよ否定的な立場をとるにせよ、いまのあなたにはそれまでのあなたとは違う、一定の「想像力」と「ビジョン」が得られてしまっている。足りないのはあと一つ、行動するための「勇気」だけだ。

人は夢を見る。あなたは夢を見ることができる。そしてあなたは勇気をもって、あなたの夢を世に問うことができる。

本稿が、あなたが勇気を得るためのささやかなきっかけになれば、これほど幸いなことはないと思う。

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