「最も信頼おける言葉をもつ芸人」のひとり、フォーリンラブ・バービーさんによるFRaU web連載「本音の置き場所」(毎月1回更新)。11月4日には、連載を一冊にまとめた初エッセイ集『本音の置き場所』が発売されました。
誰もが抱えているモヤモヤについて、バービーさんが思っていることを自身の言葉で綴っている連載の最新回は「スピリチュアル」がテーマ。この言葉を聞くと、「ヤバイ」「危ない」「怪しい」などのイメージを持ってしまいがちですが、大学時代に遡り、バービーさんが本音をぶつけます!
スピリチュアルなものへのアレルギー反応
コロナの影響で、激務から解放されたとしても、人々はまだ疲れから抜け出せない。自粛疲れ、SNS疲れ、自己肯定感ブーム疲れ、新しいプレッシャーが次から次へと泉のように湧いて止まらない。私自身も今、各所で本音を言いすぎて少し疲弊している。
「そんな時は、仏教楽器である金剛鈴やシンギングボウルを鳴らして邪気を払ったり、お香を焚いて気を浄化したりします」公の場でこういう風に言うと、本気で心配する人がいる。安心してください! バビたん宗教ハマっていませんよ! とにかく明るい安村さん風に言うと余計に怪しい。
実際には、どんな宗教を信仰してもよいわけで、厳密には「宗教にハマってあなたに何か売りつけたりしませんよ!」なのだが、スピリチュアルがかったフレーズを言うと、人を化け物でも見るかのように、「怖い」「笑えない」とアレルギー反応を起こす人がいるのは事実だ。果てには「バービーは組織と繋がっていて国民を洗脳しにかかっている」という陰謀論までつぶやかれる始末。
特に今は、某フリーアナのワイドショー降板事件から、さらに「スピリチュアルはヤバい」とさらなる逆風が吹いている。
しかし、スピリチュアル=悪なのか。

バービーが「ビビビ」を感じた本
「スピリチュアル」を辞書で引くと、「精神的な、霊的な、宗教的なものを指す」と出てくる。科学だけで説明できないものを信じること、つまり信仰といってもいいだろう。
我が家には、チベット密教の儀礼用スカーフ、インドで買った幸運の布、水晶などの石、後光に見えそうなインテリア雑貨にそれっぽく稲を刺したマイ神棚があり、逆効果なのではと思えるほど、規則性のないスピリチュアルでごった返している。

そもそも、日本は八百万の神の宿る国と言われ、信仰に寛容なはずだったのに、1995年に起きた地下鉄サリン事件など、新興宗教と凄惨な事件の記憶がリンクすることもあり、宗教ひいてはスピリチュアル全体に対する毛嫌いがすさまじい。
私は、18年前、東洋大学文学部インド哲学科仏教学専攻コース(現在は東洋思想文化学科)に入学した。きっかけは家にたまたまあった一冊の本だった。『チベット死者の書~仏典に秘められた死と転生~』(NHK出版)は、世界で注目されている仏典『チベット死者の書』にまつわるドキュメンタリーで、この仏典がどのような影響を後世に与えてきたのかがわかりやすく記されていた。
ベトナム戦争後ニューサイエンスの時代に、社会や人生に懐疑的になった若者のバイブルとなりベストセラーになったことや、輪廻転生の思想がホスピスに入院する末期患者の救いになっていることも、また、ビートルズもこの本に魅了され、インドにお篭りしたことも綴られていた。
そして本書の中で一番心惹かれたのは、分析心理学ユングがチベット密教に自身の仮説との関連性を見出していった点だ。そのとき私は、宗教が科学に追いつき追い越した瞬間を見てしまったかのような感覚に陥ったのだ。
このとき、生活はたいてい不自由なく送れるのに問題だらけという現代人の抱える心の闇を照らすヒントがチベット密教にあるのではと直感してしまった。もし、「ビビビ」が人生一回きりしかやってこない感覚だとしたら、私は異性にではなく、チベット密教に使ってしまった。
ユング心理学が科学かといわれたら疑問符はついてまわるが、体系化された学問であることは間違いない。もともと心理学を学びたかった私は、その先の可能性を感じた仏教哲学を学ぶことを選んだ。

「学科」の名前を隠す日々
しかし、いざ入学すると、当時は学科まで言うのが恥ずかしくて仕方がなかった。まだオウム真理教の一連の事件が人々の記憶に鮮明に刻まれていて、実際、麻原氏の教義は密教から着想を得ていることもあり、危険な学問だと紐づけて考える人がいた。
怪しいオカルトな学科。そんなイメージが広がり、志願者も定員割れが続いたと聞いた。今でこそ2007年から始まったテレビ東京『やりすぎ都市伝説』などの影響で、面白いものという市民権を得たが、宗教はオカルトでおぞましいものと受け止められることが多かったのだった。仏教哲学とオカルトは全く違うのだが、興味のない人にとっては知ったこっちゃない。科学以外は嘘なのだ。

スナックでアルバイトをしていたとき、「何を勉強してるの?」と聞かれても「文学部で~す」としか答えなかった。会話としては噛み合っていないのだが、女性に優しくされたい、あわよくば色情に溺れたいためにお金を払っている人に向かって、「チベット密教とユング心理学が語るところの集合的無意識がメインテーマです」と言ったところで、萎えさせるだけである。
嘘はついていない。
「文学部です」と言っている間は、モテの王道で花形の英文学科とも、人のよさが際立つ教育学科とも、女子大生として同じステージに立てた気になった。
だが、問題は学校内だ。学科のカラーというか、素性がバレている。
まだ「隠キャ」なんて便利な言葉が生まれる前のあのころ、「暗い」「危険」「怖い」というグサグサ刺さるワードで私たちはえぐられていた。「陰キャ」でふわっとくくられた方がよっぽど幸せだ。
とはいえ、なぜか椎名林檎の歌詞のような言葉でしゃべる女子や、全身ピアスだらけの男子、授業中に大きな奇声をあげてしまう人など、なかなかひと言でまとめられない同級生たちだったことも確かだった。そこに、いつも笑顔のオレンジ色の袈裟(仏教の僧侶が身につける布状の衣装のこと)を着た、タイからの留学僧ブラチャッポン君が、みんなにお菓子を配る。
インド哲学科は、校内で名乗ると一瞬その場の空気が止まる。そんな反応から私たちは自分の立ち入りを粛々と理解していた(ちなみにフワちゃんが在籍していたと言われる文学部中国哲学文学科もこちらと並ぶくらいなかなか異質な存在だった。初めて会ったときは、お互い大爆笑したのを覚えている)。
こうして私はスピリチュアルコンプレックスをひそかに増幅させることとなる。

哲学は大学の根幹のはずなのに
東洋大学の学祖は、妖怪博士とも言われる井上円了氏で、もともと思想や哲学などの学問に強い大学のはずなのに、マンモスユニバーシティになってから、私たちはマイノリティになっていた。なんて言ったって経済学部や社会学部のスーパーフリーなパリピたちがヒエラルキーのトップに君臨していて、その熱さと眩しさに、私たちは憧れ半分、反面教師的な意味を半分感じながら、ジリジリと身を焦がされていた。
長い歴史の中で、人々が求めていた「目に見えないものの力」。それを、無理にありえないものと断定する姿のほうに、違和感を覚える。何かの力を信じたいという気持ちは、時として人に平穏や力をもたらす。だから魅力があるのだろう。

みんな、運気とか運命とか、どこか気にしているはずなのに、スピリチュアルの匂いをかぎ取ると、鬼の首を取ったように馬鹿にしてくる人がいる。すぐに「何か買わされるのでは?」とか、「お金を騙し取られるのでは?」「洗脳されてない?」と短絡的に結びついてしまうことが多いのだ。
もちろん、実際に被害に遭われる人もいて、新興宗教やスピリチュアルが発端となった犯罪もあって、その多くが人の弱みにつけこんだものだからこそ、本当に許されない。
しかし「スピリチュアル=新興宗教=犯罪」ではない。

入籍の日に大安を選ぶのはスピなの?
入籍する日に大安を選ぶことは、「出た、スピ!」とはならない。今ほど合成技術が盛んになる前は、心霊写真はゴールデンタイムのテレビ番組で人気企画だった。
初詣では寒い中、長蛇の列を作ってまで、神様に挨拶に行く。習慣化したものは信仰ではなくて、文化だという人もいるだろう。「信じてるわけじゃないけど、みんながやってるから。おみくじもとりあえず引く。だって、今年は南西に行くといいのかなぁとか、妄想すると楽しいじゃん」という人が大半ではないだろうか。
そんな感覚で私はよく占いに行く。ある意味、人生のほとんどを占いを参考に決めてきたといってもいいほど、よく利用する。とはいえ、お抱えの占い師はいない。ネットでも、路上でやってる占いでもなんでもいい。要は自分の「なんとなく」の背中をひと押ししてもらったり、ひとりでは浮かばない問題提起をしてもらうために利用しているのだ。最終ジャッジは自分でする。
先日、2万円払った占いの結果に満足できなかったので、すぐさま検索して3000円の占い師のもとに行った。占いのはしごだ。高い懐石料理を食べたあとに、カップラーメンを食べるような余韻をかき消すもったいなさはあったが、カップラーメンはどんな時でもスルスルと入ってくるもんだ。

私たちは他人や先人が作り出したセオリーや理論の中で生きている。
飛行機には乗るけど、なぜあんなに重たいものが空を飛べるのか理屈をいますぐ証明できない人がほとんどだろう。もちろん科学的に飛行機が飛べる証明ができる点では、スピリチュアルとは大きな違いがあるのだが、そんな科学的根拠のあるものでも、他人が出したソースを自分自身では事実だと証明できないものであふれている。
加えて、まだまだ科学で決着のつかないものもあるし、逆にスピリチュアルだと思われてきたものが科学で証明されてきたりもしている。
糖質制限の安全性・有効性・危険性は未だ様々な説が飛び交う。脂抜きから、カロリー神話、糖質制限神話にシフトして、「いまは脂をもっと摂りましょう!」と言われたりする。ダイエットひとつとっても、科学で正解を導き出せていない発展途上な理論は山ほどある。そして、宗教の匂いがあった瞑想の効果も、科学的に実証され始め、マインドフルネスという名のもと、ビジネスパーソンなどにも大いに活用されている。

疑うことと信じることのバランスが大切
私たちは、自分で抽出したソースだけで生きてない。共通概念として社会的に認められたロジックと、自分が導き出した自分だけの信じるもの。出家しないかぎり、あふれかえる情報を疑うことと信じることのバランスをとらないと、上手く生きていけない世の中だ。
他人のロジックを拝借して、何かを信じる心に支えられ生きる。そんな意味で言うと、科学も宗教も変わらないのではと思ってしまう。
私が日々のケアには無頓着なのに、美容クリニックが大好きなのは、科学技術が人体に打ち勝つさまが清々しいからだ。どんなに運気のいいところに引っ越しても、ニキビ跡は消えない。
信じることを他人に強要したり、信じているものに振り回されて自分を見失ってしまうのは問題だが、自分の感覚や直接体験から信じるものを取捨選択することは、倫理性を深めるためにも健やかなことだと思う。
言葉では言い表すことのできない、他者では経験不可能な不思議体験や、おそれおののく気持ちや第六感を強引に無視するのは、人を刹那的で利己的な人生にしてしまうのではないかと心配になるのだ。
二元論、対立構造、表層だけの切り取りに、もう疲れた。
何を信じたって自由だ。
誰も他人の信仰を馬鹿にできない。
いつだって私は、定員一名のバビ教バビ神の信者だ。

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