「外から見ているほうがつらい」 ガザ地区出身のBBC記者、ガザを離れるも「絶対に戻る」と
ラシュディ・アブアルーフ、BBCニュース

BBCのラシュディ・アブアルーフ記者は、パレスチナ自治区ガザ地区で何十年にもわたり、取材を続けた。そのガザを、家族の安全のために離れたのは11月20日のことだった。ガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスが、イスラエル南部を攻撃してから6週間たっていた。その6週間、イスラエルはガザを攻撃し続け、今も攻撃を再開している。ガザ地区を家族と共に離れた記者は、今ではトルコのイスタンブールにいる。BBC番組「ニュースアワー」に対して、記者は故郷を離れることと、その故郷を外から見つめることについて、気持ちを語った。

私の家族と私は、ガザで生まれ育った。
そのガザを、このような形で離れざるを得なかったのが、本当に悲しい。
自分の家の隅々、自分が暮らした地域の隅々に、思い出がびっしり詰まっている。
妻の父と母ときょうだいは、まだみんなガザにいる。私の父と兄弟、姉妹も、まだガザにいる。
正直に言って自分にとっては、ガザの中にいた時より今こうして外から見ている方がつらい。中にいた当時は、やることがあまりにたくさんあって忙しすぎて、地区全体の状況についてじっくり考える余裕がなかった。
それが今こうしてガザの外に出ると、前よりも考える時間ができる。そして私にとって、もう自分の家を見ることもなければ自分のベッドに眠ることもなく、自分の家の近所を見ることも、そこに住んでいたおなじみの人たちに会うことも、二度とできないのだと考えるのは、とてもつらいことだ。
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イスタンブールへと出発した後に、私たちの家が破壊されたと知らされた。私たちの家だけでなく、建物全体が。隣近所を含めて、自宅のあった地区全体が。
BBCアラビア語の同僚たちは、何人かまだ残っている。自分が具体的にいつ出発するのかはっきりしないまま、みんなで集まっていた夜、その最中にいきなり「今だ」と出発を知らせる電話が鳴った。
同僚全員がガザを出られるよう、全力を尽くすと私は言った。
「気を強くもって、しっかり全員で協力して。BBCはものすごく、みんなのことを誇りに思っているから。BBCはみんなを守って、みんなを脱出させるために、全力を尽くすから」と、私は告げた。
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自分がガザを出て以来、同僚たちとは毎朝電話している。私たちはいつも一緒だ。いつでも助言して、ガザの中にいて直面する仕事や家族の問題を解決できるよう、相談にのっている。全員が間もなく脱出できると期待している。
私の家族は、戦争が始まった当初に出る機会があった。
ハマスが10月7日にイスラエル南部を攻撃した時、私はまっさきにBBCに電話をかけて何があったかを伝えた。
次に電話したのが、妻だった。
「荷物を準備して。君たちは今すぐガザを出ないと」と、私は妻に告げた。イスラエルが大報復を仕かけてくると思ったし、ラファ検問所はハマスの奇襲直後の数日間はまだ開いていたからだ。
妻は当初、これがいかに重大で危険な事態になるか気づいていなかった。私は残って仕事をしなくてはならない。妻は、家族がばらばらになるのをいやがり、自分たちも残ると言った。
「私たちはこのまま一緒にいる。一緒に生きる」と、妻は言った。
開戦3日目に、脱出のチャンスは失われた。ラファ検問所は爆撃され、閉ざされてしまった。
それからは、やるべきことがあまりにたくさんあった。
離れて暮らす老いた父親の面倒を見なくてはならない。家族のあれこれをしながら、仕事もしなくてはならない。
現場で取材しながらも、頭の奥では常に自分の父親のこと、自分の妻や子供たちや自宅のことを考えている。爆弾が落ちるたびに、「うちの近くか?」と考えるのだ。
ガザ市内から避難する羽目になった後、私たちはまず南部のハンユニスに到着し、何日かは親類と一緒に過ごした。
だが、滞在していた住宅が爆撃されると警告を受けたため、私たちはそこを離れて、行き場を失った。
私はハンユニスのナスル病院を取材拠点にしていたので、その近くにテントを設置することにした。家族は1週間ほど、そのテントで暮らした。
その間に私は、病院の近くに家族が住める家を見つけた。自分の仕事場の近くに家族がいれば、何があったらすぐに駆け付けられるからだ。
ガザ市内にあった自宅は、170平方メートルの広さがあった。しかし、ハンユニスでは全員がひとつの小さい部屋に押し込まれていた。私がいつも一緒にいないので、家族は私のことを心配していたし、食べ物が足りなかった。
妻は私のところへ来ようとして、その途中でけがをした。父親に会いたいと子供たちが泣くので、住んでいる部屋から病院へ、私を探しに行くことにしたのだ。
家族が病院に到着すると、敷地内にある建物の一つが爆撃された。あの日、家族は死にかけた。

ガザを出た今、私は確信している。自分は絶対に戻ると。
私は常々、ジャーナリストにとってガザは完ぺきな場所だと言ってきた。どこにいても、ニュースの題材が目に飛び込んでくる。
しかし私個人としては、家族がもう長いこと苦しんでいる。
ガザを出た時、ゲートを歩いて通過した時、私は妻に言った。「何があっても君を戻らせない」。
「だから君は、新しい場所で自分の人生を築かないと」
子供たちは脱出できて、普通の生活に戻れて、喜んでいる。かつての暮らしを懐かしがって、寂しい思いをしてはいるけれども。
けれども私はジャーナリストだ。だから、状況が許せば私はすぐにガザに戻る。この物語と自分は結びついているし、ガザ地区にいる230万の人たちは、自分たちの物語を誰かに語ってもらうべきだからだ。