旧日本軍による住民殺害 いま改めて伝え残す
80年前の沖縄戦では、さまざまなかたちで住民の命が奪われました。その中で、あまり語られてこなかったとして改めて伝え残そうという動きが出ているのが、旧日本軍による住民殺害です。遺族や地元の人たちは、なぜいま伝えたいと考えるのか、取材しました。
(NHK沖縄 市川可奈子カメラマン・堀井香菜子記者)
【制作が進むレリーフ】
沖縄本島の西およそ100キロにある久米島です。いま80年前に起きた悲劇を伝えるレリーフの制作が進められています。
久米島では旧日本軍の部隊によって、住民20人が殺害されました。有志の実行委員会では8月の「終戦の日」に追悼集会を開き、レリーフの除幕を行う予定です。
(実行委員会 神里稔会長)
「後世に、将来的に残して、永久平和を願って取り組んでいきたい」
【久米島の住民はなぜ命を奪われたのか】
なぜ住民の命が奪われたのか。地元で30年以上、平和ガイドをしている佐久田勇さんに聞きました。
山を指し示しながら「鉄塔みたいなアンテナが立ってますよね。そのあたりが旧日本軍のいた陣地ですね」と案内してくれた佐久田さん。久米島には、山に潜んでいた「鹿山隊」と呼ばれた30人ほどの部隊がいました。
6月26日、沖縄本島で組織的な戦闘が終結した後、久米島にアメリカ軍が上陸。住民の殺害は、その直後から始まりました。
(佐久田勇さん)
「米軍が上陸したその翌日、安里さんというひとが米軍の捕虜になるんですね。鹿山兵曹長に対して、降伏勧告文書を持っていけといって、ああ分かりましたと、持って行きました。その安里さんはそこでスパイ容疑で銃殺されて殺害されます。その人が最初の犠牲者です」
2日後には9人が命を奪われます。アメリカ軍に事情を聴かれた住民や家族、その地区の区長などでした。
8月になり日本が降伏したあとも悲劇は終わりませんでした。
久米島出身で、兵士だった仲村渠明勇さん。沖縄本島で捕虜になり、故郷の久米島を攻撃しないよう訴えながら、アメリカ軍とともに戻ってきました。
(佐久田勇さん)
「仲村渠明勇さんは、艦砲射撃を撃ち込んで島を傷つけるべきではないということで、だからもし仲村渠明勇さんたちが、勇気ある行動がなければ、久米島はすごい損害・被害受けていたのではなかろうかと思います」
しかし、鹿山隊は、仲村渠さんを妻や子とともに殺害。そして、その2日後にもアメリカ軍のゴミ捨て場から缶詰を拾っていた家族7人が命を奪われました。
鹿山隊は、アメリカ軍と関わりを持った住民をスパイとみなし相次いで殺めていったのです。
慰霊碑には犠牲者たちの名前が刻まれていますが、久米島では、このことについて多くは語られてきませんでした。アメリカ軍との接触を地元の人たちが鹿山隊に伝えたことが殺害につながったケースもあったからです。
佐久田さんは戦後80年となる今、歴史を正しく知ってほしいと考えています。
(佐久田勇さん)
「自分たちの役割としては、ちゃんとした歴史、それを学ぶべき、学んで人に伝えることが一番大事だと思いますね。だから決して誤った歴史を、発信しちゃだめ」
【校長だった父親は】
こうした旧日本軍による住民の殺害は、久米島以外にもさまざまな場所で起きました。80年前、本部町の国民学校で校長をしていた照屋忠英さんも、その被害者の1人です。
娘の与儀毬子さん(95)は、当時、家族とともに、本部町の祖母の家に疎開していました。家族写真で父を示しながら「家族でちゃんと写真を撮っておきましょうと撮ったんだと思うんですよ、一番の宝物」と話します。
アメリカ軍は、4月上旬になると、本部半島にも北上してきました。与儀さんは家族や親せきととともに、さらに北へ避難することになりました。そのとき、父は、山中に潜伏してゲリラ戦を展開していた旧日本軍の「宇土部隊」に協力すると言い出したといいます。
(与儀毬子さん)
「宇土部隊長は今ごろも敵が上陸して困ってると思うからって言ってね。おじは民間人が協力できるような体制ではないんだよって言って、家族と一緒がいいって言うのにね。父は自分はどうしても、宇土部隊に行ってみてくると言ってね」
宇土部隊に校舎を提供したり、天皇の写真・御真影を納める建物を建てたりしていた父は家族たちと別れます。その後、与儀さんたちを砲撃が襲いました。
気が付くと、母の妙子さんが与儀さんに覆いかぶさっていました。砲撃から守ってくれたのです。
(与儀毬子さん)
「かばおうとしたんでしょうね。とっさに私の上にこうやってお母さんがのっかって来たの。起きてよって言ったら『お母さんもう動けないよ』って小さい声で、か細い声で言ってるから『お母さん動けないよ』って言うから」
母の死に続いた悲劇が、旧日本軍の部隊による父の殺害でした。砲撃が続く中を移動していたことが不審な行動とみられたのか、スパイだとして腹を刺されたということです。
父の死によって、家族は戦後も長い間苦しめられることになりました。
(与儀毬子さん)
「もう肩身が狭いわけですよ姉兄たちも、もうほんとにもう打ちひしがれたみたいに、気力を失ってましたね。もう皮肉な事にあんなに一生懸命に、日本のために日本のことを皇民化教育とか頑張っていたお父さんが、同じ日本兵にやられたなんてもう許せないこれはってね」
スパイだとされた汚名をそそぐまで30年以上。1977年、教え子や同僚などが本部町に顕彰碑を建てました。父の照屋さんは「人格高潔で責任感が強かった」と刻まれています。
戦後長い間話してこなかったつらい記憶。与儀さんは、体験者がほとんど語れなくなった今だからこそ伝えたいと考えています。
(与儀毬子さん)
「ことし80年ていうんでね、もう勇気を奮い起こして、あの、みんな、あったことを伝えなきゃと思うからね。みんなも、あの全く、戦争知らない人たちは、話さなければ分からないでしょ。今戦争が再び起こったらねもう大変なことになると思うのよ。平和の世の中しか知らないでしょみんな、大変ですよ」